2009年09月20日

島原太夫が誘う 輪違屋の宴と太夫道中特別見学



島原の象徴ともいえる 島原大門 で集合です。
今日は参加者の顔ぶれが初めての方も多かったです……
やはり島原の宴だからかな。

島原 は、国内最初の幕府公認の花街です。当時は祇園よりも
高い格式を誇っていたのですが、今では面影はほとんど残っていません。



最初に訪れた 角屋もてなしの文化美術館 は、島原ができた当時から続く
揚屋さん(太夫や芸妓を抱えず、置屋から太夫などを派遣してもらい、
遊宴によりお客様をおもてなしする処)。

この建物は揚屋建築の唯一の遺構。内部はどこを見ても繊細で、
手入れが行き届き今でも大切に伝統を守られているのがわかります。
いつでも拝見できる訳ではありません。公開期間が決まっていますが、
拝見の際は丁寧に係の方が案内してくださいます。
残念ながら見所の2階のお座敷は今回拝見できませんでした。
現在2階は建物保存のため人数制限しておられます。
公開時間も決まっているため、必ず事前予約してお越しください。
予約してでも、価値のある多くの意匠を拝見できますよ!



この後、 島原住吉神社 へ。昔から島原の鎮守の神として崇められ、
往時は広大な境内だったそうです。
この神社の北側にある樹齢300年のご神木・大銀杏を経由して、
いよいよ本日のメインイベント! 



輪違屋 さんに到着。お玄関では女将さんがお出迎えくださいました。
この輪違屋さんは300年以上の歴史を誇ります。
外観がどっしりとした歴史を感じさせる建物です。細い格子戸がステキです。

さあ、到着早々に 太夫 さんが登場です。この島原で有名な司太夫さんです。
可愛らしい禿(かむろ)を従え、豪華なお着物が印象的。
ここで太夫道中を披露してくださいました。
「内八文字」(うちはちもんじ)と呼ばれる太夫独特の歩き方。
高下駄を地面に擦りながら、足を八の字に内へ内へと進めて行く。
なんて優雅な歩き方でしょう♪



滅多に見られない太夫道中を見学した後、玄関へ。
最初に驚いたのが、階段の広さ! 
太夫さんが行き交ったり、お料理を運んだりと、
広い階段が必要なんでしょうね。でもかなり急!
慣れないと落っこちそうでした。

そして、もうひとつは浅葱色に「輪違」の輪を白く染め抜かれた
麻の暖簾。暖簾ってお商売人さんには大切ですよね。

宴の前に女将さんが2階を丁寧に案内してくださいました。 
襖に道中傘が描かれた傘の間は、太夫道中の際に使用される
「道中傘」 を襖に貼ったものだそうです。
今見るとっても斬新なモチーフですね。
昔の方のセンスって素晴らしいです。

次は 「紅葉の間」 へ。壁にたくさんのモミジの葉が散りばめてあります。
これは、壁を塗る際に、モミジの葉を直接貼り型をつけ、その後、
貼りつけたモミジの葉を剥がすとそこにモミジの形がつきます。
その部分に顔料で鮮やかな色を付けていってモチーフにしてあります。
これもまた粋な技法ですね!

他にはお客様同士が顔を合わせないように、階段が何箇所もあったり、
階段の上にミラーボールのような物が備え付けてありましたが、
これもミラーに映る様子で鉢合わせしないようにするための
計らいだったそうです。



2階の見学が終わり宴が始まります。2本のろうそくの明かりだけになり
幻想的な空間にかわります。 

禿ちゃんの着物の袖についている鈴のリンリンと音がしてくると、
太夫さんが近くにいるという証……
遠くからリンリンと鈴の音が聞こえてきました~。

今日の司太夫さんは金糸、銀糸が豪華な打ち掛けをお召しになっていて
とっても華やかです。地毛で結った髪にたくさんの飾りをつけ
頭部だけでも3キロもあり、着物をいれると30キロほどの重量を
身につけていらっしゃるそうです。すごいですね~!

まずはお客様とのご挨拶で顔見せでもある 「かしの式」
が披露されます。 このかしの式では言葉を発することは許されませんので、
所作で自己アピールをする場なんだそうです。高尚で粋なルールですね。



続いて茶道のお点前と舞が披露されます。どちらも優雅な立ち居振る舞いが
素敵でした。その後食事をいただきながら司太夫のお話を聞きます。
島原の歴史、花街の話、太夫とは……。どれもとっても
詳しくお話いただき勉強になりました。

太夫さんのお着物の衿元が折り返されているのですが、
これは御所に上がることが出来る「正五位」の官位である
格式を現しているそうです。高貴な人たちのお相手が
ちゃんとできるように、茶道、華道、書道、和歌から琴、
三味線、唄、舞踊に至るまであらゆることを学び嗜むことが
必要とされるハードルの高いお仕事なんですね。



最後に古式雅なお遊び「投扇興」で大盛り上がりでした。
現在太夫さんは3名しかおられないとか。
継承者の方々に頑張っていただき、 いつまでもこの伝統ある
島原の街を守っていただきたいものです。
 
今日のツアーの私的なポイントは、輪違屋さんに入れたこと!
以前島原界隈を散策した際に「観覧謝絶」と書いてあったのが
すごく印象的で、どんな人がここに入れるんやろ~、って考えてました。
貴重な経験をさせていただき感謝! のひとことです。


文/らくたび会員 奥村成美様  写真/らくたび会員 岩崎守男様


  


Posted by らくたび  at 12:25Comments(0)壬生~島原エリア

2009年09月09日

上賀茂神社の烏相撲と洛北社家町西村家散策



今日九月九日は五節句のひとつ、 重陽(ちょうよう)の節句 です。
格調の高い響きですね。別名「菊の節句」と呼ばれてますが、
これは旧暦では菊の花の咲く時期である事からきています。

陰陽五行説によると数字の奇数は陽数と呼ばれ、古来良い数とされました。
その中でも1から9の数で、陽数の一番大きな数である9が重なる
(重陽)九月九日は特に重視され、宮中では中国の故事にちなんで、
この日菊の花びらを浸した菊酒を飲んで長寿と繁栄を願ったそうです。

この五節句の話はらくたびさんの講座で何度も採り挙げられ、
「鬼門」や、「御霊信仰」などと同様に、現代の私たちには
歴史を学ぶ上での必須の知識ですね。

ただ“菊の節句”と言われても、現在私達が使用している新暦では、
未だ菊のシーズンには早すぎますね。この辺がややこしい所です。



今日は京都の色々な神社で重陽の節句に関する行事が行われてますが、
今から参ります上賀茂神社では、更に 烏(からす)相撲 という
ユニークな神事も行われ、この烏相撲の見学が今日の京都さんぽの目的の一つです。
一の鳥居前に10時に集合しましたが、烏相撲には未だ少々早いので、
上賀茂神社の由来など詳しい説明を聞きつつ参道を本殿の方へ向かいます。

上賀茂神社 の歴史はとにかく古く、平安京遷都以前からこの地を支配していた
賀茂氏による建立で、王城鎮護の神として篤く敬われてきました。

祭神は賀茂別雷大神(カモワケイカヅチノオオカミ)で、神社の正式名称も
賀茂別雷神社です。と書いて気がついたのですが、
祭神の名前がそのまま神社の名前に成っているのは珍しいですよね。



上賀茂神社と烏相撲との関係ですが、上賀茂神社を創建した賀茂氏の祖は、
神武天皇が九州から東征して大和の国に入る時に道案内をした
八咫烏(やたがらす)と言われ、この烏は、賀茂別雷大神の祖父であり
下鴨神社の祭神である賀茂建角身命(カモタケツヌミノミコト)の
化身だそうです。祖先が烏という伝説から烏相撲に繋がるという訳です。

一の鳥居から真っ直ぐに参道が延びています。参道の右手には、
四月には見事な桜を見せてくれる「斎王桜」と「御所桜」の木が有ります。

左手は五月の「賀茂の競馬(くらべうま)」で馬が走り抜ける馬場が
続いており、ここには若い「鞭打ちの桜」という名の木が有りました。
丁度この桜のあるあたりで、競馬の時に馬に鞭を入れるそうです。



朱塗りの鮮やかな楼門に着きました。楼門の奥には国宝の本殿と、
本殿と全く同じ作りのこれも国宝の権殿があります。
重陽の節句の神事が行われていますが、楼門の傍からは直接は見えません。
境内を少し歩きながら烏相撲の始まりを待つ事にしました。

相撲というと現在では国技のスポーツというイメージですが、
昔は相撲にはもう一つの顔が有りました。
それは、健康と力に恵まれた男性が神前にてその力を捧げ、
神々に敬意と感謝を示し、悪霊退治を願うという神事という側面です。

いよいよ烏相撲が細殿という建物の前で始まりました。
細殿からは斎王代がご覧になってます。烏帽子姿の2人の刀祢(とね)が
小刻みに横飛びをした後、座った状態で
「カーカーカー、コーコーコー」と烏の鳴き声を真似る
ユニークな所作を行います。ここが本日のハイライトの一つです。
不思議な儀式です。そして、その後10人ずつに分かれた児童による相撲が
行われました。この相撲は私たちが普段見ている相撲と同じものでした。

相撲の途中でしたが、時間になったので、混むのを避けて
早めの昼食を摂るべく、「鯖煮定食」で有名な門前の今井食堂へ向かいました。

が、お休みでした。残念。水曜は定休日との事。がっかりして、
食事は後回しという事で、西村家へ向かいます。



上賀茂神社内を流れていたならの小川は、神社を出ると
明神川 と名前を変えて、門前の社家の町並みに沿って東へ流れます。
水量の豊かさにいつも驚かされます。社家とは代々神職を世襲してきた
家筋の事で、上賀茂神社の社家は江戸時代には300近い屋敷が
有りましたが、現在では30余りになっているそうです。



その社家のひとつである 西村家別邸(錦部家旧宅) を拝観しました。
ここには平安時代末の作と伝わる非常に古い庭園が残っています。
庭園は明神川の水を取り入れ、それを再び明神川へ戻す仕組みになっています。
テープレコーダーから流れる詳しい説明を聞きつつ、
落ち着いた時間を過ごしました。



お腹も空いてきました。神社では今日は菊酒の無料サービスが有る
との事でしたので、再び神社に戻りました。
丁度、相撲が終わって見物客の方々も続々と帰られてました。
人の流れに逆行して先程の細殿に戻ると、無事、
菊酒のサービスが受けれました。さあ、これで無病息災です。

今日は、ゆっくりと上賀茂神社を歩きました。
伝統を伝えていく姿を垣間見た烏相撲神事でした。


文・写真/らくたび会員 坂田肇様


  


Posted by らくたび  at 11:54Comments(0)上賀茂~北山エリア

2009年09月06日

アサヒビール大山崎山荘美術館とサントリー山崎蒸留所



京都駅からJRで15分、大阪との府境に位置する京都府乙訓郡大山崎町は、
古くから交通の要所として栄え、万葉の歌にも詠まれた名水の里。

また「山崎の合戦」で名高い天王山を擁する歴史的価値の高い町です。
さらに……かつて私の祖母が住んでいた町でもあり、私にとっては
ホームタウンも同然。
この日のらくたび京都さんぽはそんな山崎周辺を散策しました。


出発はJR山崎駅。最初は 関大明神社 に向かいました。
ここは今でいう都道府県が「摂津国」「山城国」であった頃、
その境界の関所が設けられていたところです。のちに関所が廃止され、
その跡地に神社が創建されました。

といっても現在でもここが京都府と大阪府の境界で、この神社は大阪府。
らくたび京都さんぽ初の大阪進出です!!
この日の私たちは難なく“国境越え”ができましたが、
昔は都への出入口として重要な関所となっていました。
平安末期、平家一門もここを越えて西国へ都落ちをしたそうですが、
どんな気持ちでこの地を歩いたのでしょうか?
「もう二度と戻れない」覚悟か、「必ず戻ってくる」決心か・・・?
神社の横には「従是東山城国」の石標が立っていました。



大阪府に進出した一行は昔の面影が残る西国街道を西へと進み、
天王山の麓に建つ サントリー山崎蒸留所 へ到着しました。

今からさかのぼること80年あまり、現サントリーの創業者である
鳥井信治郎氏が日本初の国産ウイスキー製造に乗り出した
“日本ウイスキー誕生の地”です。

私が子供の頃、夏になると“サントリーまつり”というものがあり、
親族総出の大イベントとなっていた懐かしい記憶がよみがえってきました。
こちらの蒸留所見学は試飲もできるとあって大変人気があり、
休日は予約でいっぱいだとか。



ガイドさんの案内で見学がスタートしました。
説明によると、鳥井氏がここをウイスキーづくりの地として選んだ理由は
ズバリ“水”。桂川、宇治川、木津川が合流し、この3つの川の水温の違いから
絶えず霧が発生し、平野と盆地に挟まれた独特の地形からは清らかな水が
こんこんと湧き出るまさに理想郷だったからだそうです。

鳥井氏はここで「日本人の繊細な味覚にあうウイスキーをつくりたい」と考え、
世界の蒸留所では見られない様々な創意工夫に取組んでこられました。
そのひとつがズラリを並んだ蒸留釜。釜の形や大きさを変えることで
ウイスキーの元となる原酒に多彩な香りや味が生まれるそうです。
へぇ~、職人技ですね。

そして見学後はお待ちかねの試飲タイム。「山崎12年」「白州12年」の
飲み比べを楽しみました。



この日の気温が高かったせいか、それともウイスキーで温まったためか……
かなり熱い中、再び「山城国」に戻り、離宮八幡宮を見学後、 妙喜庵 前に到着です。

こちらには茶道を究めた千利休が創作した茶室・待庵(たいあん)が現存し
国宝にも指定されています。利休もこの茶室で山崎の名水を使って
お茶を点てていたのですね。

ちょっと余談ですが……私が子供の頃大好きだったメニューに
「山崎のおばあちゃんの家で食べるおうどん」というものがありました。
沸かしたお湯に粉末のうどんスープを溶かし、麺を入れただけの
シンプルなものなのですが、同じものを京都市内の我が家で作っても
明らかにおいしさが違ったのです。
祖母いわく「山崎は水がおいしいから」。利休のお茶と私のうどん体験。
まったく異なるようですが、どちらもシンプルなものだからこそ、
そこに水の違いが現れるのかもしれません。

ここからJRの線路越しに見えるのは天正10(1582)年
羽柴秀吉と明智光秀による天下制覇をかけた戦い「山崎の合戦」
の舞台となった天王山です。川と山に挟まれた特徴的な地形から
「天王山を制した軍が勝利する」と考えられ戦が繰り広げられました。

このことから「天王山」という言葉が一世一代の大勝負の代名詞として
使われるようになったそうですが、この町から一つの日本語が生まれた……
よく考えたらすごいことですよね。



さて、サントリーの次はアサヒビール。芸術の秋にふれてみようと
アサヒビール大山崎山荘 へと向かいます。

この山荘はもとは大正から昭和にかけて活躍した実業家・加賀正太郎氏の
別荘として建築されました。その後、時代の流れとともに
荒廃が著しかったものを平成になってアサヒビールの当時の社長
(アサヒスーパードライがヒットした時の社長さんだそうです)
により修復整備が行われ、現在では安藤忠雄設計の新館と合わせて
美術館として公開されています。

加賀氏は若き日に訪れたイギリスで眺めたテムズ川の流れの記憶から
ここ大山崎を山荘建設地に選んだそうです。敷地内に自ら設計した別荘の
建築状況を見るための塔まで造ったこだわりよう。
美術館を鑑賞した後で立ち寄った喫茶室のテラスには
当時と変わらない壮大な風景が広がっていました。



ここで京都さんぽは終了となりましたが、この日の散策を通して
山崎の地形、気候、地下水といったあるがままの自然が
いかに重要な役割を果たしてきたのかを知ることができました。

また子供の頃と今では同じ場所に立っても見えるものが
随分と違うことも新たな発見でした。
「もう何回も行っているし」とわかったつもりになるのではなく、
これからも現場に足を運ぶことで、その時、その時に感じることを
大切にしていきたいなぁ……と思いました。


文/らくたび会員 森明子様  写真/らくたび会員 鴨田一美様


  
タグ :京都大山崎


Posted by らくたび  at 11:06Comments(0)その他