2012年10月01日

9月23日 明智光秀最終章 小栗栖に儚く消えた光秀を追う!

9月23日のらくたび京都さんぽは、明智光秀シリーズ最終章として、
天王山の戦いで敗れ、再起を図るべく坂本城を目指して、
光秀が通ったと思われる道のりを歩き、最後の地・小栗栖を目指しました。

散策の最後には、東山へと移動して、
光秀の首塚を守る餅虎さんで光秀饅頭を頂きました。
(写真は桔梗の時期に撮影した首塚です。)


出発はJR藤森駅。
光秀は暗闇にまぎれながらこの辺りから大亀谷を経て、
小栗栖へと向かったと思われます。


入り組んだ住宅街も、先生がいると道に迷わず楽しく歩けますね。



丘に広がる住宅街の道をしばらく進むと、
古御香宮(ふるごこう)と呼ばれる神社に出会いました。


伏見城を築城した豊臣秀吉が、鬼門除けとして
御香宮神社をこの地に遷したといわれ、
後に家康によって元の地・すなわち現在地に再度遷されました。
そのために、ここは古御香宮と呼ばれています。


皆さんで古御香宮を参拝します。拝殿前の長い石は、
桓武天皇のものともいわれる石棺の台石なのだとか。


古御香のとなりには、桓武天皇陵墓参考地があります。
秀吉がこの地に神社を移したのは、
この地を保護する目的もあったともいわれています。


峠を越えた下り坂は、突然竹林に変わります!
光秀もこうした道を望みを捨てずに通って行ったのかもしれません。


竹林の細道の途中には、
弘法大師が杖をついて水を湧きださせたという杖の水
今も大切にされていました。



やがて竹林を抜けると、小栗栖や醍醐の街並みが広がります。
この辺りは光秀と交流のあった人物(勧修寺晴豊)の領地で、
光秀もここまで来てホッとしたのではないかと、山村先生が語ります。


こちらは小栗栖八幡宮。平安時代からの由緒を持つ古い神社です。
いよいよ小栗栖へと入ってきました


小栗栖一帯にある本経寺境内には、明智光秀供養塔が立っています。
一般的にはこの辺りの竹藪で農民の長兵衛に脇腹を刺されて
最期の時を迎えたとされ、終焉の地との立て看板もあります。
ただ、山村先生によると、光秀の死には不可解な点も多いそうですよ。


同じく本経寺境内一角の藪地には、明智藪の石碑もあります。
京都検定でも明智藪の祟りの話が出てきますね。
それだけ光秀には無念があったと思われていたのでしょう。


小栗栖の地で刺された光秀は、一説にはしばらく逃げるものの、
もはやこれまでと家臣に介錯を求め、首を切られたといわれます。
その胴を埋めた胴塚が、小栗栖からしばらく歩いたところに残されています。


さて、胴塚からは地下鉄の小野駅から東山駅へと移動して、
首を埋めたと伝わる首塚を目指しました。
光秀は知恩院へ自らの首を運んで供養してほしいといったとも伝わりますが、
真相は謎に包まれています。


その首塚を管理し守っているのが、近くにある和菓子屋・餅虎さん。
名物の光秀饅頭を頂きます。薄皮まんじゅうで、黒糖と抹茶の二種類があります。
なぜか抹茶味が人気(笑)餅虎さんからはお茶も頂きました。
お心遣いに感謝感激です。



明智光秀の足跡をたどる散策も今回が最終章
光秀は何を思い、小栗栖へとたどり着いたのか・・・
実際に歩いてみることで思いを重ねることができたかもしれません。
胴塚や首塚が伝説として残されているところにも、歴史のロマンを感じますね。

今回はじっくりと歩く散策でしたが、
普段は歩くことの少ない道ばかりだったと思います。
ご参加頂きまして、ありがとうございました。



                                  ご案内 / らくたび代表・山村 純也
                          受付・添乗・文・写真 / らくたびレポーター・吉村 晋弥
  


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2011年12月06日

11月26日(土)山科毘沙門堂から“ 小関越え ”で三井寺へ



秋の晴天の中、山科毘沙門堂〜“ 小関越え ”で三井寺
この散策に約30名もの参加者が集まりました!

まずは、ボリューム・美しさともに京都屈指の紅葉の名所として
人気の毘沙門堂へ。
今年のJR東海さんの「 そうだ京都、行こう。 」のポスターで紹介されている
毘沙門堂は地元人の私が初めて見るほどの賑わいでしたface08


しかし、紅葉の見頃はまだまだで、これからが楽しみですね。


毘沙門堂から
一足のばして塔頭である山科聖天双林院( やましなしょうてんそうりんいん )へ。
武田信玄や多くの信徒や寺院から奉納された聖天像を七十数体合祀し、
「 山科の聖天さん 」として広く信仰されています。



そして山科の歴史の古さを実感できる諸羽神社( もろはじんじゃ )に到着。


創建は862年という古刹。このあたり( 四ノ宮、安朱 )の産土神です。
森の中にありますが、山科駅からはすぐなんですよ。


境内には大きな「 岩坐 」が祀られています。


山際の琵琶湖疎水に沿ってどんどん歩くと、住宅街に至りますが、
疎水はまだまだ続いているんですね。


しかし、紅葉が美しい!


春の桜の季節も良いでしょうねface01


さあ、いよいよここからが小関越です。
浄土真宗 普門寺さんが目印です。


小関越は、大津と京都を結ぶ古道の一つで、
山科で東海道・東山道とが分かれた北陸道の道筋。
東海道・東山道の「 逢坂の関 」が大関、
それに対して裏道のこちらが「 小関 」だとか。


しんどい登りはいかにも小関越、と古を偲ぶことができる道ですが、


下りはアスファルトの車道でしたface07


ひたすら下り到着したのは長等神社( ながらじんじゃ )
三井寺はこのすぐお隣です。

天智天皇が大津宮の守り神とし、その後667年大友皇子によって祀られました。
860年には円珍が三井寺の鎮守社としたとういう歴史があります。


境内には兄・平清盛を偲んだ「 平薩摩守忠度( ただのり )」の
歌碑が建てられています。
『 さざなみや 志賀の都は 荒れにしを 昔ながらの山桜かな 』


さあいよいよ三井寺に到着しました。
ここ三井寺は、正式には 長等山園城寺( ながらざん おんじょうじ )といい、
天台寺門宗の総本山です。

まずは観音堂へ。西国三十三所観音霊場・第14番札所でもあるので
参拝者が途切れることがありません。


この観音堂は小高い位置にあるので展望がよく、
琵琶湖の向こうの対岸までくっきりと見えました。


滋賀県有数の紅葉名所といわれる三井寺。
観音堂と本堂をつなぐ参道の紅葉はほんとに美しかったなぁ。


参道にはこんなに可愛らしいお地蔵さんがface02


国宝の金堂に着いた頃には日も暮れてきて、静寂の中の参拝となりました。

境内には天智・天武・持統の三天皇の御産湯に用いられたとされる
霊泉( 井戸 )があることから、「 御井(みい)の寺 」と称され、
後に「 三井寺 」と通称されるようになったそうです。


京都の有名寺院はもちろんですが、すぐお隣の滋賀県にも
格式高く紅葉も美しい寺院がたくさんあります。

次回の ” 滋賀たび ” に期待したいと思いました!

参加者の皆さん、お疲れさまでした。
そして山村先生、ありがとうございました!

    文・写真/らくたび会員 奥村なるみ
  


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2010年04月11日

毘沙門堂の観桜会と山科疏水・桜並木



春になると、今年の桜はいつまで楽しめるだろうか、
今日の花見にどれだけ桜が咲いているだろうか、
もう散りはじめかな、なんて気をもむ事しきりですが、
今年の桜シーズンは天候不順のお蔭か、意外と長く楽しめそうです。



今日の京都さんぽは、「毘沙門堂の観桜会と山科疏水・桜並木」です。
天台宗五箇室門跡の内、妙法院、青蓮院、三千院、曼殊院には
それぞれ何度が訪れる機会があったのですが、
ここ毘沙門堂へは一度もなく、ぜひ訪ねてみたいところでした。

今回の集合場所はJR山科駅、定刻には40名前後の参加者が集まっておられます。
若村さんから、本日の予定、見所などの説明を受けて、さあ出発です。



出発して間もなく、閑静な住宅街の緩やかな登り坂道を歩いていくと、
そこかしこの民家の庭に桜が咲き誇っています。
この分だと毘沙門堂の桜に期待が持てます。

途中で琵琶湖から流れ出た疏水と交差している地点に差しかかりました。
疏水の土手には沢山の桜と、目映いばかりの黄色い菜の花がいっぱいです。
そよ風に吹かれて、桜吹雪のお出迎えです。まさに春そのものです。
参加者のシャッター音があちこちから聞こえて来ます。



毘沙門堂 は703年、僧行基によって開かれたと伝えられています。
御所の北にあったのですが、度重なる戦乱から苦難の道をたどり、
1665年に山科に再建されました。
後西天皇の皇子公弁法親王が入寺して門跡寺院となりました。

ご本尊の毘沙門天は、天台宗の宗祖で比叡山を開かれた
伝教大師のご自作で、延暦寺根本中堂のご本尊である
薬師如来の余材をもって刻まれたと伝えられています。
拝観のポイントについて、説明していただきました。

<その1>
襖絵の中に面白いものがあります。梅の木には鶯、竹にはスズメが
お決まりなのですが、梅とか竹にヒヨドリとかシマヒヨドリが
描かれています。この部屋に通されたお客は、これを見て

「木と鳥が合っていない」つまり「取り合ってもらえない」

と気づかなければならないという、いかにも京都人らしい
遠まわしに意味を伝えるという部屋があるので
是非ご覧くださいとのことです。

<その2>
右から見るのと、左から見るのでは奥行きが入れ替わって見える
不思議な錯覚のする襖絵があります。
逆遠近法という手法だそうで、言葉では言い尽くせないのですが、
一度見てもらえば納得して感動していただけると思います。






境内はさすが桜の名所と言われるだけあって圧巻です。
今日はお琴の演奏もあり、琴の音を聞きながらの桜鑑賞は、
のどかで、優雅で大変素晴らしかったです。



毘沙門堂を後に、先ほどの 山科(琵琶湖)疏水 に戻り、流れに沿って歩きます。

明治2年(1869年)の東京遷都により、京都の町や人口、産業が
衰退していった折、何とかしたいと考えた第3代京都府知事北垣国道は、
琵琶湖から京都への運輸水路の開発を考えました。

当時の国家予算が7000万円。京都府の年間予算が50万円台の時代に
工費125万円をかけて、琵琶湖から鴨川落合まで、11.1kmの疏水を
明治23(1890)年完成させました。疏水の完成により

                ・ 飲料水、灌漑用水の確保。
                ・ 日本初の水力発電所(世界で2番目)の完成。
                ・ 京都市電など京都の近代化に貢献。
                ・ 日本人のみの手で行われた、誇るべき一大工事であった。
                ・ 京都市内で只一つ、北へ向かって流れる川である。


現在でも、京都御所や東本願寺の防火用水にも使われています。
当時は30石舟が行き来していました。そのため疏水に掛かる橋は、
下を船が通れるように、水面から高く作られています。



流れの速さは、人が早足で歩く程度で、いくつもの桜の花びらが
流れていました。これを 「花筏(はないかだ)」 というのだそうです。
言葉の響きと言い、とても美しい表現ですね。

また、沢山の楓の木があり、新芽が芽吹いています。
このあたりにお住まいの人は、春も秋も楽しめる環境が羨ましい限りです。
散策は勿論のこと、自転車で走れば更に爽快です。


途中に立ち寄った 吉祥山安祥寺(真言宗) は、嘉祥元(848)年、
仁明天皇の女御で文徳天皇の母、藤原順子の発願により、
入唐僧の恵運によって創建された寺で醍醐寺に匹敵する
とても大きい寺だったそうです。
非公開のため門前で説明を受けました。


しばらく、疏水に沿って桜を楽しみながら歩くと、左手に
天智天皇陵 が現れます。中臣(藤原)鎌足と謀って蘇我氏を倒し、
大化改新を行った天皇で、中大兄皇子といった人、といえば
歴史の教科書でおなじみの天皇です。

歴史の生きた教科書がこんなにも近くにあったのですから、
中学生時代にここを訪れておれば、
もっと歴史が好きになったのではないかと、後悔させられました。



散策の締めくくりは日蓮宗の 本圀寺 です。
疏水に掛かる赤い橋を渡り山手に進むと真っ赤な山門が眼に飛び込んできます。

この門はかつて加藤清正が寄進したものを復元したものだそうで、
開運勝利の神様「せいしょこ(清正公)さま」 の門をくぐると、
開運勝利の人生が開けるそうで「開運門」と呼ばれています。



仁王様も、梵鐘も、灯篭も金色づくし、こうした派手さとは対照的な
落ち着いた境内には、しだれ桜が咲いていました。

このあと、御陵駅付近に向かい解散となりました。
今回の疏水沿いの散策は、桜とのタイミングがよかったのか、
とても印象深い散策となりました。
秋の紅葉の季節にもぜひ訪れて見たい京都の穴場的な地域で、
とても気にいってしまいました。

若村さん、ご参加の皆さん、お疲れ様でした。ありがとうございました。


文・写真/らくたび会員 鴨田一美様


  


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2010年03月28日

隨心院「はねず踊り」と醍醐の花見



今年度最後の京都散歩スペシャルツアーは、随心院「はねず踊り」と
醍醐の花見です。集合は地下鉄東西線の小野駅改札口に午後1時です。

今回初めてお眼にかかかる方の多さに驚きました。
らくたび散歩にも変革の波が押し寄せているようです。
正にチェンジなのでしょうか。(笑)

山村さんからの事前情報によると、醍醐の桜は絶好の見ごろを迎えている
とのこと、太閤さんの気分が味わえそうで、とても楽しみです。



随心院に向かう途中の道端に大きな 榧の古木 があります。

その昔、小野小町に想いを寄せる深草少将が求愛したところ、
「百夜、通い続けたら晴れて契りを結ぶ」と約束されたそうです。
その日数を榧の実で数えていたのですが、九十九日目で
途切れてしまって想いが果たせなかったという伝説があります。
この目の前の大きな榧の木を見ていると、深草少将の気持ちが
伝わってくるように思います。

榧の古木をあとに、随心院へ向かいます。このあたりは
車道と歩道の区別がなく、かつ自動車の往来の激しいところです。
歩いていると後ろの方から「車が来ま~す、左によってくださ~い」
と大きな声が聞こえてきました。
振り返ると先日「らくたびガイド講座」を修了されたM.Iさんです。
早速の実践に頭が下がります。ありがとうございます。



随心院 では、「はねず踊り」の舞台が屋外にセットされていました。
「はねず」とは、「薄紅色」のことです。
境内の梅園には沢山の梅の木があります。
満開の時期が過ぎていたのですが、梅の花が少し残っていました。
この梅の花の色が「はねず色」といわれる色です。



さあ、 「はねず踊り」 がはじまります。

「出演は地元小学校の4年生から6年生だそうです。
静かで可憐な京都ならではの、古風で優雅な踊りです、お楽しみください」
とのアナウンスがあり、踊りがはじまりました。

この踊りは、長らく途絶えていたのだそうですが、昭和48年、復活を願う
人々の声にこたえて、古老の記憶をたどりながら甦ったのだそうです。

はねず色の衣装をまとった踊り手の身振り手振りに春を感じます。
最後まで踊りを満喫したかったのですが、時間のこともあり
ご本尊にお参りをしました。

本堂でご本尊の如意輪観世音菩薩坐像にお参りしていると大粒の雨が
降ってきました。通り雨でしょうが屋外での踊りは出来なくなり、
急きょ本堂前で演ずることになったようで、
踊り子さんの晴れ姿がお気の毒ですね。


境内には、小野小町の 化粧井戸 があり、小町が朝夕
この水を使っていたのでしょう。さしずめ「美顔の化粧水」
といったところでしょうか。
また、深草少将をはじめとして、当時の貴族から小町に寄せられた
千束の文を埋めたといわれる 文塚 がひっそりと残されていました。


随心院をあとに、住宅街の中を抜けて世界文化遺産の醍醐寺に向かいます。
この桜の観光シーズンの真っ只中だというのに、
このルートには観光客らしき人の姿は見当たりません。



途中、 醍醐天皇陵 を案内していただきました。
醍醐天皇といっても、イメージが浮かばない方は、
菅原道真を大宰府に流した天皇と思っていただければいいですよ
と言う説明に参加者から「お~~」という納得の声が上りました。

この御陵は、醍醐寺が昔から管理をされていることなどから、
醍醐天皇の御陵にまず間違いないでしょうとの説明がありました。



朱雀天皇陵を案内していただいたあと、醍醐寺の塔頭の一つである
理性院 に立ち寄りました。ここは、2007年5月4日の「京都さんぽ」で
上醍醐を訪れた際に立ち寄ったお寺です。

アルバムを開いてそのときの様子を見てみると、
本日説明していただいたように、藤棚の花がとても綺麗だったことと、
赤いよだれかけをまとった沢山のお地蔵さんが印象に残っています。
ここは、醍醐寺の穴場の一つです。

残念ながら、上醍醐の西国第十一番札所・准胝堂は、
2008年8月24日未明の落雷で焼失してしまいました。



醍醐寺 の仁王門の辺りは桜がいっぱいですが、
まだ満開には至っていないようです。

特別史跡・特別名勝の 三宝院 の表書院から見る庭園は、
豊臣秀吉が「醍醐の花見」に際して、自ら基本設計をした庭で、
桃山時代の華やかな雰囲気が感じられます。

庭の中心に位置し、阿弥陀三尊を表しているといわれ、
また歴代の武将に引き継がれていることから「天下の名石」
といわれている「藤戸石」があります。

この華やかな庭園をカメラに収めたかったのですが、
撮影全面禁止と言うことでした。

このほか、奥宸殿にある「醍醐棚」は、修学院離宮の「霞棚」、
桂離宮の「桂棚」とともに「天下の三大名棚」といわれています。



続いて寺に伝わる数々の国宝、重要文化財などが収納されている
霊宝館 へ向かいます。「准胝堂」の火災のようなことを考えると、
こうした施設は必要なのでしょうが、やはり本来のお姿で
拝見できるに超したことはないですね。

こちらの敷地の一番奥に立派な桜があると山村さんからお聞きしていたので、
楽しみにして行ってみると、ありました、ありました。
京都で一番大きな、立派な しだれ桜 です。周りにも沢山の桜があります。
この肌寒い気候のお陰か、今年の桜の時期は長く続きそうで、
十分に桜を満喫できる年になりそうです。


地下鉄醍醐駅に向かう途中、また本格的な雨が降ってきました。
桜さん、この雨に負けず、長く咲き続けて楽しませてくださいね。
山村さん、ご参加のみなさん、お疲れ様でした。
ありがとうございました。 
 

文・写真/らくたび会員 鴨田一美様
  


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2009年02月23日

醍醐寺「五大力さん」と勧修寺「臥龍の老梅」



今年の「京都さんぽ」の特徴は、京都の有名な行事と
寺社の散策の組み合わせにある様で、
今日2月23日は醍醐寺の五大力尊仁王会の見学と、隨心院、勧修寺を巡る企画です。

地下鉄東西線「醍醐」駅を出て、新興住宅街の雰囲気の中を、
東に10分ほど歩いて南北の道(奈良街道)にぶつかった所が 醍醐寺 です。
理源大師聖宝(しょうぼう)が開いた真言宗の寺で、京都府下最古の
国宝の五重塔や、春の桜の美しさで有名な古刹です。



途中、未だ「餅上げ力奉納」は終わっていないのに、
醍醐寺から駅の方へ帰って行かれる大勢の方々とすれ違いましたが、
山村さんの説明で理由が解りました。

五大力尊仁王会は平安時代より続く厳粛な法要で、僧侶の方が
七日間の前行の後の23日に、国家安泰と国民の幸福を祈願し、
五大力尊を刷った「御影(みえい)」のお札が本日のみ参拝者に
授与されます。これを家の玄関などに貼ると、災難、盗難を
免れる事が出来ると言われています。

この「御影」のお札を頂くのが参拝の本来の目的で、途中すれ違った方々は、
お札を買って目的を果たした方々だったのでした。



しかし私達(私かな?)の目的は法要のハイライトの「餅上げ力奉納」
の見学です。五大力尊(不動明王など五人の明王の総称)に力を奉納し、
身体堅固などのご利益を授かるというものです。
女性は90kg、男性は150kgの巨大な鏡餅を持ち上げ、
その継続時間を競う競技です。

総門から真っ直ぐ仁王門をくぐり、金堂の前まで来ました。
通常は仁王門で拝観料を払うのですが、本日は無料です。
金堂前の特設舞台上で山伏姿の僧侶が審判として見守る中、
丁度、男性の部が始まったところでした。

ここで30分ほどの自由時間となり、皆さん好きな場所から
楽しく見学されてました。持ち上げの状態に持っていくのが
中々難しい様です。腕の力で持ち上げるのではなく、
体を使って持ち上げるという感じです。
持ち上がってからは、途中1分、2分と経過時間がアナウンスされ、
観客から盛んな拍手が起こります。持ち上げまで行かずに
ギブアップされた方も何人かいました。私達が見ていた中で、
5分少々持ち上げた男性の方がいましたが、後でその方が
男性の部で優勝されたそうです。
何かほのぼのとした気分になった所で醍醐寺を後にしました。



奈良街道を北に20分ほど歩いて 隨心院 に到着です。
隨心院も真言宗のお寺で仁海僧正が建立した曼荼羅寺に始まる門跡寺院です。
南側の門から入ると、すぐ左手に梅園が広がっていました。

ここの梅は遅咲きで有名なので、未だ殆どが蕾状態でした。ここ隨心院は
小野小町が晩年を過ごした屋敷跡とも言われ、小町ゆかりの史跡として
小町に寄せられたラブレターを埋めた「文塚」や
化粧の水を汲んだとされる「化粧の井戸」などを見学しました。

この地に伝わる有名な伝説に、深草少将の「百夜通い」があります。
小町に恋をした深草少将は毎夜自宅から山を越えて、
ここ小野の地の小町の屋敷に通ったのですが、九十九日目に
とうとう力尽きて亡くなってしまいます。哀しいお話ですね。

3月の第4日曜日には小野小町と深草少将に扮した少女らによる
「はねず踊り」が行われます。
その時は、梅園の梅も満開になっている事でしょう。


また、仏像に関しても必見のお寺だそうです。理由は、京都では、
何体もの仏像を一堂に見る事の出来るお寺は少ないですが、
隨心院では本尊の如意輪観音の他、快慶や定朝作の
阿弥陀如来坐像、薬師如来坐像などが横一列に並んで配置されており、
すぐ近くでこれらの仏像を見る事が出来るからです。
 
梅のシーズンには早すぎる為か、境内はほぼ私達の独占状態で、
仏像もゆっくり拝観できました。如意輪観音像には惹かれました。



最後の目的地の勧修寺に向かう途中、大きな 榧の木 が有りました。
小野小町が深草少将が通った日数を数える為に使った榧の実が、
こんな立派な木に成長したという事です。

山村さんの説明を聞いて、皆さん「ウアァー」と感嘆の声をあげていました。



勧修寺 (かじゅうじ)は、醍醐天皇が母である藤原胤子(いんし)の菩提を
弔うために建立したお寺で、ここも真言宗の門跡寺院です。

今回の目的は「臥龍の老梅」の見学です。臥龍の老梅は、
書院前にある親子孫の3代から成る珍しい白梅です。
親は根の部分、子は枯れ木でつながり、そこから孫の木が
今花をつけています。ちょっと時期が遅かった様ですが、
健気に頑張って咲いていました。すぐ近くに水戸光圀寄贈の
変わった形をした「勧修寺型燈籠」も有り、その周りを
樹齢750年と伝わる「這柏槙(はいびゃくしん)」が覆ってます。

境内の大半を占めるのは、平安時代の作庭と伝えられている
「氷室の池」を中心とする庭園です。
平安時代には、ここに張った氷を宮中に献上してその厚さによって
五穀豊穣を占ったそうです。

又、初夏から夏にかけて、カキツバタ、睡蓮、蓮などが咲き、
花の寺としても有名です。

が、今日はオフシーズン。何も咲いてない真冬の池を、
参加者一同で楽しく周遊しました。
 
今回は、ちょっと歩きましたが、皆さん全然疲れた様子もなく
地下鉄小野駅で解散となりました。
参加者の皆さん、らくたびさん、お疲れ様でした。


文・写真/らくたび会員 坂田肇様
  


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2008年06月08日

隨心院・勧修寺花めぐりと山科散策



今日6月8日の「京都さんぽ」は、平安時代からの古刹である隨心院、
勧修寺をメインにした南山科散策です。
忠臣蔵の大石内蔵助ゆかりの岩屋寺も訪ねます。

直前までの天気予報は雨でしたが、晴れました。少し蒸し暑い中、
地下鉄小野駅から総勢20名で出発です。

駅名から解る様に、この辺りは古来、小野郷と呼ばれ小野妹子や
小野篁など小野氏が栄えた地であります。
今向かってます隨心院は、その小野氏の中でも一番の有名人である、
あの絶世の美女 小野小町 の屋敷跡と伝えられてます。



2、3分歩いて、大きな木の傍で立ち止まりました。
最初のチェックポイントの様です。小野小町にまつわる伝説の中で、
最も有名な話が「深草少将の百夜通い」です。

無骨で純粋な深草少将が小野小町に一目惚れをしました。

小町は「百夜通って下さるなら、貴方の人になりましょう」と応じたのでした。

その夜から、少将は深草の里から山科の小町の屋敷へ通い始めます。
そして九十九日目の雪の夜、すっかり体を弱くした深草少将は
小町の屋敷に行く途中で力尽きてしまったのでした。

悲しんだ小町は、少将が通った証に置いていった榧(かや)の実を、
少将が通った道に植えたのでした。


今私たちが見ている木が、その榧の木です。
私はこういう話が大好きです。単純に信じましょう。



5分で 隨心院 に到着です。この隨心院は遅咲きのはねずの梅で
有名なお寺で、毎年3月の最終日曜日には観梅と地元の少女らが舞う
はねず踊り を観に多くの人で賑わいます。

ところで、このはねず踊りで歌われる深草少将の話は、
上に書いたのと随分結末が違っています。

少将は九十九日目、雪がひどいのを理由に代人をたてます。
ところが小町に代人を立てたことがバレてしまい、
少将は振られてしまいます。


・・・いや少々(少将)興ざめですね。

隨心院は正暦2年(991)年、仁海僧正が建立した曼荼羅寺に始まる
真言宗のお寺で、本尊の如意輪観音や快慶作の金剛薩捶坐像などを
ゆっくり拝観する事ができました。

小野小町ゆかりの史跡も多く、化粧の時に使った井戸・化粧井戸や
多くの貴公子から送られたラブレターを埋めた文塚、そして、
老年の小町の姿を彫ったという卒塔婆小町像など、
興味深く見学しました。

それにしても、なぜあの卒塔婆小町像のような老衰像を
作ったのでしょうか? 
昔の人は小野小町をどういう風に捉えていたのでしょうか?



隨心院を後に10分ほど西へ行くと 勧修寺 です。
勧修寺は醍醐天皇が母の藤原胤子(いんし)の菩提を弔うために
昌泰3(900)年に母方の実家である宮道弥益(みやじいやます)宅に
建立したので始まりで、ここには狩場のロマンスとして、
以下の様な話が伝えられてます。

藤原冬嗣の孫で藤原高藤(たかふじ)が山科の地に鷹狩に来て
雨宿りに泊まったのが、土地の郡司である宮道弥益の屋敷でした。

ここで、高藤は弥益の娘の列子(たまこ)と一夜の契りを結びます。
6年後、再びこの地を訪れた高藤は、列子との間に可愛い女の子
(胤子)が出来ていた事を知り、列子を嫁に迎えます。
胤子は後に宇多天皇に嫁ぎ、醍醐天皇を生んだのでした。

日本版シンデレラ。寺では「玉の輿(こし)に乗る」という言葉も
ここから出たと伝えてます。

えぇ……一寸待って下さい。玉の輿の話って、
西陣の八百屋の娘の「お玉」さんが、徳川三代将軍家光の側室になり、
五代将軍綱吉の生母になった話の事じゃなかったのですか?
この山科の地にも玉の輿伝説が有ったのですね。でも何となく
「お玉」さんの方が、玉の輿という感じに合う様な気がしませんか?

先日、北野天満宮の近くの立本寺に行った際、幽霊子育飴が
売られているのにビックリしました。玉の輿伝説と同じ様に
「幽霊子育飴」の話も複数箇所に有るそうです。先入観や固定観念って
意外と心の中にしっかりと根を張っている様ですね。

また、紫式部は藤原高藤の玄孫(げんそん:ひ孫の子)にあたり、
源氏物語ゆかりの地でもあります。紫式部は列子の事をヒントにして、
明石の君の話を書いたとも言われてます。



勧修寺は花の寺として有名です。庭園は氷室池(ひむろいけ)を
中心にした池泉舟遊式庭園で梅、桜、杜若、睡蓮、蓮など
四季の花に彩られ、平安時代の趣を今に伝えております。

今日は睡蓮は今ひとつでしたが、花菖蒲が咲き誇ってました。
皆さんゆっくりと庭園の美しさを堪能されてました。



勧修寺から 岩屋寺 へは、ちょっと長い行程で黙々と歩きます。
忠臣蔵の大石内蔵助が、討ち入りの前一年余りを暮らしたのが、
岩屋寺が建つこの地です。
本堂の下段境内に結構広い隠棲宅跡が有りました。
堂内には四十七士の位牌と木像が祀られており、又内蔵助の遺品や
浅野内匠頭の肖像画も置かれてます。

風さそふ 花よりもなほ 我はまた 春の名残を いかにとやせん
―(辞世)浅野長矩 ―

じぃーんときます。案内をして下さった女性の方の説明は
大変おもしろく楽しい時間でした。
この後、大石神社に立ち寄り、最後は平安時代の武将で
征夷大将軍になった坂上田村麻呂の墓を見て椥辻駅で
解散となりました。今日廻ったお寺は、どこも伝説や縁起、
由緒などに多くの話が有り、花や庭園の美しさと相まって、
京都を学ぶ楽しさを、改めて感じた次第です。


文・写真/らくたび会員 坂田肇様
  


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2007年11月24日

毘沙門堂の大パノラマ紅葉と山科疏水めぐり



最高の天気に恵まれ、紅葉もピークを迎えた絶好の日、
スタッフを含めて47名という大人数でのスタートとなりました。
集合場所の山科駅前から毘沙門堂までは徒歩20分ほど、
参道の狭い部分では車が行き違えないほどで、バスは到底はいれません。
極楽橋を渡るといよいよ 毘沙門堂 へ到着です。



思ったより人は少ないながらも、さすがに紅葉の量の多さは
目を見張るものがあり、とりわけ勅使門からの参道が絶景でした。

晩翠園と呼ばれる庭園や弁才天を祀ったお堂周辺も見事に色づいています。
毘沙門堂は紅葉のみならずお堂の内部も必見です。
特に宸殿を中心に各部屋で拝観できる狩野尚信作の襖絵は、
逆遠近法を取り入れた「動く襖絵」として知られています。
襖絵を見ながらゆっくり動くと、老人の横の長机が見事に動きました!
皆さんしばし襖絵を見たままいったり来たり。



そして面白かったのが最後の部屋。
襖絵には梅の木に山鳥、竹の木にシマヒヨドリが描かれています。
これは本来、梅に鶯、竹に雀という常識を外したもので、
木に鳥があってない→すなわち「とりあわず」の間ということです!
ここに通された客人はこの襖絵をみて、
教養があればなるほど今日は会えないと理解して退散しますし、
その意味が理解できなければいつまでも待たされることに……。
なんともユニークで、ある意味厳しい世界だと感じました。



見所いっぱいの毘沙門堂を後に、いよいよ 山科疏水 めぐりの開始です。
山沿いに流れる疏水を右手に歩いていくと、右手にかつて栄えた安祥寺、
そして左手には大化改新を成し遂げ、
大津京を開いた 天智天皇陵 があります。






紅葉を楽しみつつ更に進んだところで朱色の橋に出会いました。
明らかに今までの橋とは作りが違います。その橋を渡って山手に進むと
なにやら金色が目の前に飛び込んできます。
到着したお寺は 本圀寺(ほんこくじ) 。日蓮宗の大寺院です。

鎌倉にあった日蓮上人の庵からスタートし、京都六条堀川では
かつて大伽藍を形成していました。
その後この山科の地に移転してきたそうです。
それにしても金色に輝く巨大な仁王像に皆さんしばし呆然。
同じく金色に輝く梵鐘は、豊臣秀吉の姉である日秀尼が寄進したものだとか。
奥には日蓮宗の熱烈な信者で、入口の門も寄進した
加藤清正公をお祀りした清正宮がありました。
こちらの鳥居も金色・・・。圧倒されました。
しかしながら、派手な色使いとは対照的に境内はひっそり静まりかえり、
現在も厳しい修行が行われている雰囲気がヒシヒシと伝わってきました。



最後に訪れたのが 永興寺(ようこうじ) です。
こちらも観光寺院ではありません。
以前からこちらで個人的に坐禅をさせていただいている関係もあって、
お願いすると快くお堂の中に入れてくださいました。
道元禅師が開いた曹洞宗のお寺で3番目に古く、歴史ある寺院です。
大本山の福井県永平寺と最初の道場である宇治の興聖寺から
最初の一文字ずつをとって名づけられたそうです。
庭に胴体があり、もぐって天井に姿を現しているという
平成第一号の天井龍をみせていただき、
日本一の大きさの木魚も叩かせていただきました。

隣にある山科豊川稲荷にもお参りし、細い道を三条通りまで戻って
終了となりました。
解散後、希望者の方は更に蹴上まで歩いて紅葉を楽しんでいただきました。

多くのご参加をいただき、ありがとうございました。 


文/山村純也
  


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2007年05月04日

ゴールデンウィーク!新緑の醍醐山登山

5月4日は「みどりの日」です。その日にふさわしく、新緑を愛でよう!
と、いつもとはちょっと趣向を変えて、
今回のらくたび講座は醍醐登山に決定。
一口に醍醐寺と言っても、実はふもとの下醍醐・山上の上醍醐と
分けられるほど広く、醍醐寺を訪れてもほとんどの方は
上醍醐にまでは足を踏み入れていないのではないでしょうか。


当日、空は晴れ渡り、ときにそよ風が心地よく頬をなでる
絶好の登山日和となりました。
醍醐寺、と聞いて頭に浮かぶのは豊臣秀吉が催した盛大な
「醍醐の花見」ですが、太閤ご自慢の桜達は
つい半月前を忘れたかのように青々とした若葉を茂らせていました。


集合場所の三宝院前から金堂に五重塔・・・
と説明を聞きながら移動するうち、だんだんと参加者の皆さんの間に
軽い緊張感が漂ってきた、と思ったのは気のせいではないでしょう。
登り口には貸し出し用の杖もあってかなり本格的です。
不動明王像に水をかけて道中の無事を祈願して、いよいよスタート。


道はある程度整備されていて、木陰だからそれほど暑くもなく、
可憐な草花も目を癒してくれました。
登山道では初級コースといったところでしょうか。
それでもウソはつけません。
覚悟はしていたものの、相当きつい道のりでした。
ここを豊臣秀吉も登ったというから驚きです。


数回の休憩を入れつつ、全員がなんとか無事に目的の上醍醐へ。
ここで楽しみにしていたのが醍醐水です。
醍醐寺の開山・理源大師に、この土地の神様がこんこんと湧き出る水を示し
「醍醐味なるかな」といわれたという言い伝えにより
寺の名を醍醐寺としたのだとか。
またそこから仏教の最上の教えをそう呼び、
転じて物事の本質的な良さをあらわす「醍醐味」という言葉が
生まれたのです。
どれほどの美味かと期待していたのに、残念ながら醍醐水は
渇水のため飲むことが出来ませんでした。
まぼろしの水を想像しつつ持参したお茶でのどを潤し、また登ります。


准胝堂、薬師堂、五大堂に開山堂まで点を結ぶようにめぐって・・・・・・


たどり着いた場所はまさに絶景!折り重なるような山の向こうに
小さな伏見桃山城のシルエット、さらに向こうはかすむ町並み・・・
一同しばし陶然として景色を眺めていました。


さみしいような嬉しいような勢い任せの帰り道、
行きの半分もかからず下界へ降りて理性院へ。
こちらは拝観できるお寺ではありませんが、この時期の藤の美しさは
一見の価値あり、です。門の外からそっと垣間見るというのも、
なかなかに奥ゆかしくてよいのです。
理性院を後にしてそのまま北上し、朱雀天皇陵と醍醐天皇陵の前を通って、
地下鉄小野駅まで行って解散となりました。


盛りだくさんの一日のしめくくりは、随心院に伝わる小野小町と深草少将の
悲恋物語でした。

小野小町に恋をした深草少将は百夜通いの誓いを立てるのですが、
あと1日というところで倒れてしまうのです。
今日の私達のようにみんなで励ましあって歩いていたら、
深草少将も約束を守り通せたかもしれないなあと思ったのでした。

記:あさがお

  
タグ :京都醍醐寺


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