2011年10月17日

10月9日(日)御室仁和寺と幻想の世界へ誘う梵燈の東林院へ



この日の京都さんぽは午後3時半スタート。
まずは、格式高い門跡寺院・仁和寺を閉門ギリギリまで、たっぷりと散策しました。

霊宝館で開催されている 秋季名宝展 を鑑賞。
国宝の阿弥陀如来座像をはじめ、ずらりと並ぶ貴重な寺宝は見応えタップリ!
霊宝館の中は若村先生の解説が響き渡ってましたよface02

そして、御所の紫宸殿を移築されたという 国宝・金堂( こんどう )、
弘法大師像、宇多法皇像、仁和寺第2世性信親王像が安置されている 御影堂( みえいどう )を参拝して、御室御殿( おむろごてん )へ。

御室御殿は皇室ゆかりという格式の高さがうかがえ、ここに佇んでいると時空を越え私も皇族になったような気分です。日暮れてほんのり秋色に染まる雅な庭園にうっとりicon12


あっと言う間に時間が過ぎ、気がつけば閉門時間。
私たちが仁王門を出ると・・・すぐに扉は閉じられましたface08


さあ、ここからは京焼の祖 ・野々村仁清窯跡オムロン発祥の地 〜 徒然草の執筆の地・双ケ岡 〜 随筆家・吉田兼好が眠る長泉寺 〜 法金剛院ゆかりの待賢門院御陵妙心寺へと進みます。

妙心寺に到着する頃には、夕焼けが美しく幻想的な風景を見ることができました。


太陽が沈んだ宵の刻の境内に点在する塔頭寺院をめぐりながら、東林院へ向かいます。
広い境内をこんな時間ICON129に歩くことはまずありません。
みなさん、貴重な体験にテンションアップしてはりましたね〜icon14


そして、東林院に着いたころには日も暮れて・・・
この日はこんな素敵なイベントが行われています
梵燈のあかりに親しむ会


境内に手づくりの瓦製梵燈( ぼんとう )や、古瓦のうえに約400本のろうそくが灯り、幻想的な世界が広がります

このイベントは恒例となっているそうですが、今年は東北大震災で多くの方が犠牲になった方々の冥福を祈り、禅語の【 生死事大 】という文字が灯されていました。

生死事大 :しょうじじだい
  生死は重要で、生きている今に悟りを求めることが大事である 」の意。
               若村先生のブログより引用。



しばし煩悩を忘れ去り、灯りを見つめながら、静寂なひとときにひたりました。

夜のお寺をそぞろ歩く、一人ではまず来られない素敵な企画。
こんな京都さんぽも良いものですね。

ありがとうございました!

そして・・・。
夕刻近くのスタートだったので、みなさん「 お腹空いた〜!」と。
この後は急に現実的に〜。

解散後、若村先生と希望者の皆さんとのご一行はこの界隈の名物!
お好み焼き・ジャンボ に行かれました
その様子は、若村先生のブログ こちら をご覧下さいね。

                                                          写真/らくたび会員 五島千恵様
                                                          文・写真/らくたび会員 奥村なるみ


  


Posted by らくたび  at 11:32Comments(0)妙心寺~花園エリア

2010年07月11日

蓮が咲く法金剛院の極楽浄土と厳粛な禅風を受継ぐ妙心寺

7月11日の京都さんぽは、花園駅に13:00に集合しました。

時折、地面を叩く雨脚の激しさに戸惑いながら、法金剛院、妙心寺の法堂・浴室、
最後に妙心寺の塔頭退蔵院にてお抹茶をいただきました。 
 

 関西花の寺第十三番札所として知られている法金剛院は、
双ヶ丘の東に位置し、景勝地であった為、天長7(830)年頃には、右大臣・清原夏野の山荘が建てられました。後に「天安寺」になり、第74代鳥羽天皇中宮・待賢門院璋子が、荒廃した天安寺を大治5(1130)年に白河法皇の菩提を弔う為に復興し、寺名を「法金剛院」としました。




多幸多難な人生を歩んだ待賢門院は、魅力的な麗人だったようで、白河法皇の猶子(養子)から、鳥羽天皇の皇后となり、崇徳天皇、後白河天皇の生母となりました。しかし、待賢門院を庇護した白河法皇が崩御すると、運命は一変。美福門院との政権争いやわが子である崇徳天皇と後白河天皇の対立が生じ、やがて貴族社会の終焉と武士の台頭を本格化させました(保元の乱・平治の乱)。波瀾万丈な生涯だったのですね!

 法金剛院の本尊・阿弥陀如来坐像(重文)は、平安後期の大仏師・定朝の流れを汲む院覚の作で、古くは、平等院、法界寺とともに定朝の三阿弥陀と称されてきました。また十一面観世音菩薩(重文)は坐像のお姿で、さらに四本の手を持つ姿も他にあまり例がない珍しいものです。この仏殿で如来と菩薩の違いや九品来迎印や施無畏・与願印などを若村先生から教えてもらいました。
   
 「蓮の寺」と称される法金剛院の庭園には数多くの鉢植えや睡蓮があり、蓮荷が雨水にうたれながら、背筋を伸ばして佇む姿は優美で、待賢門院が極楽浄土をこの世に現すために作庭したのが頷けます。平安時代の滝石組の遺構である「青女の滝」は880年前の人工の滝とは思えない、清楚でたおやかな滝石組でした。
                          
滝の近くには、待賢門院堀河の歌碑があります。

    ~長からん心もしらず黒髪の 
                 乱れてけさは物をこそ思へ~  


何とも妖艶な歌ですね。待賢門院堀河は、待賢門院の落飾に殉じて出家した歌人で、
崇徳天皇や西行と歌のやり取りがありました。

 さて、庭園内を自由に散策した後は、妙心寺へ向かいます。妙心寺は、臨済宗妙心寺派の大本山で、康永元(1342)年に関山慧玄が創建し、四季折々の花が咲く花園離宮を禅寺に改めたことに始まります。全国に約3500の関係寺院があり、教団運営が安定していることから「妙心寺の算盤面」と称され、現在も境内に46の塔頭がある事・・・等の説明がありました。南総門の案内板の大きかったこと!!


法堂(重文)は、明暦2(1656)年に建立されたもので、鏡天井(つり天井)には“狩野探幽法眼守信筆”と記された「八方睨みの龍」が描かれています。想像上の龍は、口は鰐・髭は鯰・角は鹿・全体としっぽは蛇・鱗は魚・爪は鷲や鷹・目は牛を参考にしたとか!鋭い眼差しで、法堂に入るものを見据えています。建立に使用した大木を運搬する道として「丸太町通」と名付けられたお話も興味深かったです。

 梵鐘(国宝)は紀年銘文のあるものでは日本最古のもので、698年に鋳造されました。黄鐘調(おうじきちょう)鐘とも言われ、吉田兼好の『徒然草』の中に「およそ鐘のこえは黄鐘調なるべし・・・」とあり、法堂内に保管されています。現在は、テープにて音色が楽しめました。法堂外から、梵鐘の模造品の鐘の音と開山堂の鐘の音が聴こえ、三種類の鐘の音を聴くことが出来ました。


 また撞座(つきざ)と言われる鐘をつく時に木(撞木)が当たる部分は、高い位置にあるものほど時代が古いとされています。これからは、撞座も見ましょう!

音色の余韻にひたりながら浴室「明智風呂」へ向かいます。浴室(重文)は、天正15(1587)年、密宗和尚(明智光秀の母方の叔父)が光秀の志納金で浴室を設け、お経をあげながらお風呂に入られたことから明智風呂と呼ばれていますが、実際に明智光秀は浴室を使用していません。また、風呂敷の語源は蒸気を出す板敷きの隙間に直接肌が触れないように敷いた布をさすとのことです。衣類を包んだり、今では、多方面に大活躍の代物。  

 仏殿(重文)で、午後3時の時報を聞きました。鐘の音を聞く事でひとつずつ煩悩が減って行くこと、鐘を撞く事で時間を知らせる役割があったことを知りました。「時」とは、寺が日時を知らせると書くとか。なるほど!納得です。

 三門(重文)は、三解脱門を意味し、空門・無相門・無願門の三つの悟りの境地をあらわし、この門を通ると、浄土へ至るとされています。毎年、6月18日には懺法会が営まれ、内部を参拝出来ます。皆さん!忘れないで下さいね~!





 本日、最後に訪れるのは、妙心寺塔頭のひとつ、退蔵院です。退蔵院は、応永11(1404)年、妙心寺第三世無因宗因を開山として、波多野重通が創建しました。退蔵院は、方丈、大玄関がともに重要文化財で、さらに、日本の水墨画初期の代表作である、如拙の「瓢鮎図(ひょうねんず)」(国宝)があります。公案と言われる参禅者への課題「如何にして瓢箪でなまずを獲るか?」を禅問答も含めて描きあげたユニークなものです。現品は、京都国立博物館に寄託され、複製品が飾られています。解説がないと多分理解出来ないと思います!

 












庭園は、水墨画の流れに大和絵の技法を取り入れた狩野元信作庭の枯山水庭園「元信の庭」と、中根金作氏による昭和の名庭「余香苑」があります。前者は、枯滝・蓬莱山・亀島・蓮の鉢植えがある優雅な庭園で、石組みに風格がありました。後者は、三段落ちの滝が流れ落ち、細部に至っては入り口の門には瓢箪となまず、お抹茶と瓢鮎菓子をいただいた大休庵には、瓢箪をかたどった窓がありました。庵からも美しい花々がゆっくり眺められます。 

 若村先生の梅の実が熟す頃の雨を「梅雨」と言うのです・・・等、
七夕と雨にまつわるお話に耳を傾けました。時間がゆったり流れる感じです。




帰り際に、水琴窟の澄んだ音色で癒されながら、退蔵院を後にし、各自、帰路に着きました。
梅雨明けは、もうすぐ!雨の中ご参加された皆様、スタッフの皆様、お疲れ様でした。


《参考文献》
らくたび文庫 009嵐電ぶらり各駅めぐり 妙心寺
014京の仏像NAVI 如来・菩薩
015京の庭 NAVI 池泉庭園編 退蔵院・法金剛院
016京都スタァ名鑑 女性編 待賢門院 美福門院
037京の神さま仏さま 仏さま編 臨済宗 等

               執筆:らくたび会員/岩崎 真紀枝様   写真:らくたび会員/岩崎 守男様                     


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2008年07月20日

早朝の蓮観賞と花園散策



法金剛院の蓮の花を見学する為に花園駅に早朝8時に集合しました。
花園駅集合は、この4月の「春の双ヶ丘ハイクと御室桜」に続き2回目です。
4月は駅前の花水木が満開の春でしたが、今日は完全な夏日です。
未だ朝の8時というのに、既に汗が噴き出しています。さあ出発です。

法金剛院 は駅前の通りを渡ってすぐの所です。ここは京都には珍しい
律宗の寺院で、歴史は古く平安時代の初め、右大臣清原夏野の山荘に
始まります。平安時代の末の大治5(1130)年に鳥羽天皇の中宮である
待賢門院が復興し、法金剛院とされました。昔は広大な敷地に
九体阿弥陀堂や三重塔など多くの御堂が建つ大寺院でした。



一歩中に入っていくと、もう蓮の花で一杯です。参道や礼堂の前には
鉢植えの蓮の花がびっしりと咲いており、また池も水面も見えないほど
蓮で覆われてます。皆さん庭を回遊しながら、蓮の花の写真撮影に
頑張っておられました。



ここの庭園は平安時代の数少ない遺構として国の
特別名勝になっている、極楽浄土を模した浄土庭園です。最古の人工の滝
と言われる青女の滝が現存しています。蓮の花を堪能した後、もう一つの
見所である仏像を見に仏殿に入っていきます。定朝の曾孫弟子の院覚作と
伝わる丈六の阿弥陀如来像は平等院鳳凰堂や法界寺のそれと同じく、
定朝様の藤原仏です。

「大きいな・・・」というのが第一印象でした。廬山寺と桔梗、梨木神社の
萩など、京都には“花と寺社”のペアが素敵な場所が沢山あります。
同じ行くならそのお寺の花が一番綺麗な時期に伺うと、
より思い出に残ると思います。



という事で「蓮の花の寺」の法金剛院を後にし、東に10分も歩くと
妙心寺 です。全国に約6000有る臨済宗のお寺で、妙心寺派はその半数以上の3500
にのぼると言われ、まさに「妙心寺の算盤面」といえる勢力です。
建武4(1337)年、花園法皇の開基、開山は関山慧玄。47もの塔頭がある
大寺院で見所が多すぎますので(?)今日は一切拝観せずに、山村さんの
説明を聞きながら南総門から北東へと境内を抜けて行きました。



説明された伽藍、塔頭は、浴室(明智風呂)、法堂(狩野探幽の
雲龍図)、鐘楼(この中にある鐘は2代目。初代の国宝の黄鐘調の鐘は
法堂内部に保管)、退蔵院(如拙の国宝の瓢鮎図:レプリカ、元信の庭、
中根金作の余香苑)、霊雲院(狩野元信が逗留、西田幾多郎の墓)、
玉鳳院(開山堂「微笑庵」:開山の関山慧玄を祀る)、海福院(開基の
福島正則の話、等持院の方丈はここからの移築)、桂春院などなど。

ここで、妙心寺の法堂の巨大な柱の丸太は、富士山麓から切り出されて、
伏見で陸揚げされ、京都で丸太を引き運んだ道が「丸太町通り」の
由来となったという、久々に「へえ~」という話も聞けました。



視界の中に、塀の向こうに立派な大きな木が見えます。何処の何と言う
塔頭から聳えている樹かも解らないので、思わず、

♪この木何の木 気になる木♪

と口ずさんで、写真を撮ってしまいました。



妙心寺を出て、北に10分位歩いて 等持院 山門に到着です。
少し歩くと立派な銅像が立っています。「日本映画の父」と呼ばれる
マキノ(牧野)省三の碑で、1932年まで、ここに等持院撮影所が在りました。
俳優の長門裕之、津川雅彦兄弟は牧野省三氏のお孫さんだそうです。
ようやく等持院に到着です。



暦応4(1341)年、足利尊氏の開基で、開山は夢窓疎石、臨済宗の
お寺で、五山十刹の制の中で十刹の筆頭(一位)の寺格のお寺です。

夢窓疎石作の名庭には、足利義政好みの茶室清漣亭や足利尊氏の
お墓が有ります。初代足利将軍のお墓にしては、余りにも質素
というか、こぢんまりしていました。

ここでは、霊光殿の歴代足利将軍の木像も必見です。
戦をしたら滅法強いが、反面情に厚く優しい人と言われた尊氏は
何となく上品な顔に見えます。室町時代の絶頂期の将軍ゆえか、
傲慢な顔の“三代義満”、やはり話通りの神経質そうな“八代義政”
など見る者を飽きさせません。

と書きましたが、私たちは、これら像を見る前に、その将軍たちの
事を前もってあれこれ知識として持っているので、今書いた様な
印象になるのかも知れませんね。例えば義満が大変慈悲に富んだ
優しい将軍だったとしたら、この義満像をみて、ふくよかな
大きな耳の優しい顔の義満像などと思うのかもしれませんね。



等持院の庭は衣笠山を借景にしていますとなっていますが、今は
立命館大学の建屋が視界を遮っており、残念ながら衣笠山は
殆ど見えません。が、鉄筋コンクリートの建築物はどの位の年数、
耐えられるのでしょうか?

今居る等持院など日本建築は木造ゆえに、長い年月が経っても、
その間に何回もの修復作業が行われてきて、今日までその昔の姿を
私たちに見せてくれています。コンクリート造りの場合は
修繕などが可能なのでしょうか?もしそうでないならば、
その内コンクリート造りの建物は寿命と共に無くなってゆきます。
その後何を立てるかで、衣笠山の借景が復活する日も
期待できるかな等、取り留めのない事を考えた次第です。
この後、立命館大学で解散となりました。

早朝散策でしたが、記録に残る暑さの中でのツアーではなかったか
と思います。

参加者の皆さん、らくたびさん、本当にお疲れ様でした。


文/らくたび会員 坂田肇様  写真/らくたび会員 鴨田一美様
  
タグ :京都


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