2009年06月20日

鞍馬寺・竹伐り会式と木の根道散策



今日の京都さんぽは、京都の夏のはじまりを告げる行事、
鞍馬寺の 竹伐り会式 を見学します。

その後、源義経(牛若丸)の伝説に浸りながら、山間の木の根道を歩いて
貴船神社に降りるハイキングも目的のひとつです。
天候は晴れてますが、梅雨に入って蒸し暑くなっており、
鞍馬山の霊気のエネルギーと涼を求め、叡山電鉄出町柳駅から出発です。

丁度30分で終点鞍馬に到着しました。駅前には巨大な天狗面のオブジェが
据えられており、鞍馬に来たという実感を湧かせてくれます。
京都の愛宕山や、ここ鞍馬は昔から天狗伝説があり、鞍馬には
大天狗の「僧正坊」が潜むと言い伝えられてきました。



門前のお土産屋を過ぎて5分で仁王門です。ここが結界の場所、
ここから先が神聖な地という事になります。

鞍馬寺 の歴史は非常に古く、平安京遷都前に遡ります。
奈良の唐招提寺の開祖である鑑真和上の高弟であった鑑禎(がんてい)上人が
宝亀元(770)年に霊夢によって鞍馬山に導かれ、
毘沙門天を祀った事に始まります。
延暦15(796)年には、造東寺長官の藤原伊勢人(いせんど)が
観音様を祀る地を求めて、やはり鞍馬山に辿り着きますが、
既に毘沙門天が祀られている事を知り思案にくれていますと、
夢に“観世音も毘沙門天も根本は一体のものである”との
天の声のお告げがあり、藤原伊勢人は喜んで千手観音を合わせ
祀ったという事です。
鞍馬寺は何度も火災で焼け、明治維新の廃仏毀釈によって荒廃し、
昭和24(1947)年に鞍馬弘教の総本山となり復興しました。

という事で仁王門も新しく明治44年の建造です。
鞍馬弘教である鞍馬寺の本尊は「尊天」と呼ばれてます。
「尊天」とは『すべての生命を生かし存在させる宇宙エネルギー』であり、
毘沙門天(太陽の精霊)、千手観音(月の精霊)そして護法魔王尊
(大地の霊王)の三尊からなり、60年に一度の御開帳で
次回は2046年という事です。



仁王門を過ぎると 由岐神社 の拝殿です。
ここの拝殿は、中央が吹き抜けになっている割拝殿という形式で、
又中央は階段状の参道にもなっています。由岐神社は鞍馬寺の鎮守社で
元々は宮中に有りましたが、朱雀天皇の時に(940年)、北方鎮護のため
鞍馬の地に遷宮されたそうです。

毎年10月22日の鞍馬の火祭は、この由岐神社の例祭で、宮中からの遷宮の際に
里人が、かがり火を持って神霊を迎えた事によるそうです。

神社にお参りした後は、いよいよ登り坂です。この先、清少納言が枕草子で
書いている「近くて遠きもの 鞍馬の九十九(つづら)折りという道」が続きます。
曲がる度に、ゴールは未だ?かと、
なかなか終わらない参道を見事に言い表してますね。



本殿金堂前の階段に僧兵姿の法師たちが整列していました。
今日の儀式の主役の方々ですね。

本殿金堂に到着です。舞台の前は竹伐り会式見学の為に、もう既に
沢山の人で埋まってました。とても写真を撮れる位置には行けない状況です。
目でしっかり記憶する事にしました。

竹伐り会式は寛平年間(889-897年)に峯延上人が鞍馬寺で
修行中に現れた大蛇を仏法の力で退治したという故事にちなんだ行事で、
水への感謝を祈る儀式です。

僧兵姿の法師が丹波座、近江座に分かれて、大蛇になぞらえた青竹を
五段に切り落とす速さを競うもので、勝った方のその年の豊作が
約束されると言われてます。

舞台に法師たちが上がってきました。竹伐りが始まりました。
が、テレビなどで見ていたのと様子が違います。
ゆっくりとしたテンポで竹を伐り終えました。
聞くと、竹の長さを揃える「竹ならし」と呼ばれる試し伐りであり、
この後、雅楽の演奏と舞が20~30分ほど奏上されました。
そして、最後が「勝負伐り」という竹を伐り落とすスピードを競う儀式です。
これがテレビなどで見ていた勇壮な儀式で、あっという間に終わりましたが、
竹を切るのは、なかなか大変な様でした。



即会場を後にして貴船神社に向かいます。
本殿金堂から貴船神社まで、約1.5kmの山道のハイキングです。
与謝野晶子の書斎冬柏亭を過ぎ、石段を上ると、いよいよ奥の院参道です。

道幅も狭くなりうす暗い原生林の中を歩いていきます。息つぎの水です。
牛若丸が僧正ヶ谷に剣術の修行に通った時に、この水を飲んで喉を潤したそうです。



木の根道です。岩盤が固いため地中に根が入り込めず、
地表に根が浮き出てます。写真などで見たそのままの景色で感動しました。

背くらべ石です。奥州に下る事になった16歳の牛若丸が名残を惜しんで
背比べをした石です。1.2mの高さの石で牛若丸の身長と同じだった
と言われてます。もし、本当なら、その後成人して少しは身長が伸びたとしても
源義経は相当背が低かったかもしれませんね。ここからは下り坂になりました。



義経堂、不動堂と過ぎて、奥の院魔王殿に着きました。
650万年前に金星から降臨したという魔王尊を祀ります。すごい話ですね。

そして、貴船川に出てきました。結構きつい下り坂でした。
今日は京都講座が予定されてますので、そちらに参加の方はここで分かれました。
 
残ったメンバーで、すぐの貴船神社に参拝して
本日の京都さんぽは終了となりました。
貴船神社では水におみくじを浮かせて占う水占いが人気でした。
涼を少しは感じられると期待した本日の京都さんぽでしたが、
鞍馬の駅からずっと登り下りの連続で、涼よりも
登山による暑さの方が勝りました。
皆さん、無事貴船に降りて来られ、大変お疲れ様でした。


文・写真/らくたび会員 坂田肇様


  


Posted by らくたび  at 14:38Comments(0)貴船~鞍馬エリア

2009年06月14日

藤森神社アジサイ苑と知られざる深草の里めぐり



6月は紫陽花の花が綺麗に色づく季節。
更に日ごとに暑さが増し夏の訪れを感じる季節でもあります。
そんな中京都さんぽが開催されました。
今回は京都・伏見の深草界隈を散策です。JR藤森駅に集合した一行は
初めの目的地である藤森神社を目指します

藤森神社 は創建が平安遷都以前という歴史ある神社です。
菖蒲の節句発祥の地とても知られており、菖蒲が勝負と転じて
勝運と馬の神社として信仰を集めています。

その為、全国から競馬関係者や競馬ファンが訪れています。
その他にも1500坪もの紫陽花苑があり3500株もの紫陽花が植えられています。



訪れたこの日は色鮮やかな紫陽花が咲き誇っており、
多くの参拝者で賑わっていました。

しかし、藤森神社の見所はこれだけはありません。まず、
神社南参道前にある鳥居には額がありません。
江戸時代には後水尾天皇御宸筆の額が掲げてあったのですが、
前の道が西国大名の参勤交代の道筋だったので、
各大名は神社前を通る時駕籠から降り拝礼をして、槍などは
穂先を下げて通行していました。
しかし、幕末に悠長なことをしていたのでは時代に即さないとして
新選組の近藤勇が外してしまったと言われています。
後水尾天皇御宸筆の額を外すとはさすがは近藤勇!!
因みに西側の鳥居にはちゃんと額が掲げられています。



次は手水鉢。この手水鉢の台石があの石川五右衛門の寄進!? 
だと言われているのです。それも宇治浮島の十三重塔の五番目を持ってきた
と言われており、その部分だけ色が違っているのがわかるそうです。

本当に色が違うかどうかはご自分の眼でお確かめ下さい。
因みにワタシはさんぽ終了後気になる方と確認に行きました。色は……



一行は京阪電車を超えて 墨染寺欣浄寺 を目指します。
墨染寺の通称は「桜寺」。読み方は「ぼくせんじ」です。

名前の由来は平安時代に藤原基経の死を悲しんだ歌人上野峯雄が

深草の野辺の桜も心あらば今年ばかりは墨染に咲け

と詠んだところ、桜が薄墨色になったとの伝説により墨染寺と
名付けられました。現在は三代目の墨染桜が境内に植えられています。
実際には初めは真っ白に咲き、その後次第に墨色を帯びてきます。



墨染寺の真裏に位置する欣浄寺は道元禅師が創建した曹洞宗のお寺です。
この欣浄寺は百夜通いで知られている深草少将の屋敷があった場所
とされています。その為、境内には深草少将と小野小町の塚や、
涙の水とも呼ばれる「墨染の井戸」があります。

御本尊は伏見の大仏として親しまれている昆盧舎那仏です。高さが5.3mもあり
近くで見るとその迫力に圧倒されます。本堂は中二階になっており
お参りすると丁度目が合う造りとなっています。
さらに小野小町の恋文の灰を固めて作られたと言われる
深草少将張文像が安置されています。

欣浄寺を後にした一行は撞木町から墨染インクラインを歩きます。
撞木町は江戸時代に栄えた遊郭で当時を偲ぶものは石碑しか残っていません。
ここは忠臣蔵の大石内蔵助が通っていた所でもあります。
史実では祇園一力亭ではなくこちらに通っていたとされています。
墨染インクラインは昭和35年に完全撤去され今は発電所しか残っていません。
実はこの疏水沿いは桜が非常に綺麗で、墨染寺と共に隠れた桜の名所でもあります。

京阪墨染駅に戻り本日の京都さんぽは終了です。
夏を思わせる日差しの中思った以上に日焼けをしてしまいました(笑) 


文/らくたび会員 森田和宏様


  


Posted by らくたび  at 14:24Comments(0)伏見~深草エリア