2012年10月22日

10月14日 「妙」・「法」に接近 知られざる松ヶ崎エリアへ

10月14日(日)のらくたび京都さんぽは、
五山の送り火で知られる「」・「」に接近!
特に「法」は火床まで登って絶景を堪能しました。

松ヶ崎日蓮宗の信仰が強いエリア。
地域に根差したゆかりの社寺を巡りました。

出発は地下鉄の松ヶ崎駅。地上へ上がるとすぐに山並みが迫り、
伝統的な民家が見えてきます。


まずは「」へと近づいて行きますが、
途中に末刀(まと)岩上神社があります。
なんと本殿がなく、ご神体が「」という古くからの信仰形態を残す神社です。


神社の隣には桜井水が今も湧いています。
清少納言の枕草子で「井は、少将井 桜井 云々」とある桜井は、
この水のことだとする説もありますが、
地元では付近の墓参りの備え水としても使われているそうです。
松ヶ崎には興味深いものが色々とありますね!


さて、「」へと続く道の麓へとやって来ました。
が!「送り火点火奉仕者以外の入山を禁じる」の文字が。


もちろん山村先生はそのことを知っていて、
「妙」に近づける別の道へと進んでいきます。
と、そこに突然、鹿が登場!私たちを見下ろすと、
道案内をするかのように消えて行きました。


鹿が案内してくれた(?)道を進んでいきます。


」の文字をすぐ近くで望める場所までやってきました。
眺めがよく、京都市街地も一望できました!



思いがけない道で「妙」へと接近した後は、狐坂へと進みます。
昔、岩倉から嫁いできた働き者の娘がいました。
病気の母を見舞うため、畑仕事を終えた夜に暗いこの坂を歩いていくと、
狐が夜道を照らしてくれたとのいい伝えが残されています。


続いて、新宮神社へ。
かつてあった日蓮宗の寺・妙泉寺の鎮守社として創建されたそう。
独特なお顔の狛犬もいましたよ。


松ヶ崎には水路もあって、柿を売っているところもありました。


七面大明神を経て、涌泉寺へとやってきました。
題目踊りで知られるお寺で、
日蓮宗の本寺と妙寺とが合わさって涌泉寺となりました。


涌泉寺からさらに東へと進んでいきます。
いよいよ「」が見えてきました!


こちらは都七福神でも知られる松ヶ崎大黒天
このお寺の境内から「法」へと登ることが出来ます。


登っていくと火床も現れます。
なんと消し炭もたくさん残されていましたよ。


」は大文字山よりも手軽に登れますが、なかなか勾配が急です。
それでも多くの方が、一番上まで登って行きました。見事な絶景が広がります。


皆さんで記念撮影です!


今度は下りが大変!ゆっくり進んで、無事に下りることが出来ました。


大黒天のお隣には牛の神様を祀る白雲稲荷神社が。
東松ヶ崎では、井戸掘りと牛の飼育が禁じられていたために
牛が神として祀られているそう。
農家では馬が飼われて、農耕に従事していました。


修学院方面に向けて、比叡山が望める長閑な道を歩いて行きます。


今回は、叡山電車の修学院駅で終点です。
「妙」「法」を巡りながら、松ヶ崎を端から端まで歩きました。
松ヶ崎には、知られざる神社や日蓮宗のお寺がたくさんあり、
先生からは興味深いお話をたくさん伺うことが出来ました。


しかも「」「」からの眺めは素晴らしく、
送り火を守り伝えている松ヶ崎の皆様に感謝しつつ、
絶景を堪能させていただきました。
今回もたくさんの方にご参加頂きまして、ありがとうございました。




                                  ご案内 / らくたび代表・山村 純也
                          受付・添乗・文・写真 / らくたびレポーター・吉村 晋弥
  


Posted by らくたび  at 08:56Comments(0)上賀茂~北山エリア

2012年10月01日

9月23日 明智光秀最終章 小栗栖に儚く消えた光秀を追う!

9月23日のらくたび京都さんぽは、明智光秀シリーズ最終章として、
天王山の戦いで敗れ、再起を図るべく坂本城を目指して、
光秀が通ったと思われる道のりを歩き、最後の地・小栗栖を目指しました。

散策の最後には、東山へと移動して、
光秀の首塚を守る餅虎さんで光秀饅頭を頂きました。
(写真は桔梗の時期に撮影した首塚です。)


出発はJR藤森駅。
光秀は暗闇にまぎれながらこの辺りから大亀谷を経て、
小栗栖へと向かったと思われます。


入り組んだ住宅街も、先生がいると道に迷わず楽しく歩けますね。



丘に広がる住宅街の道をしばらく進むと、
古御香宮(ふるごこう)と呼ばれる神社に出会いました。


伏見城を築城した豊臣秀吉が、鬼門除けとして
御香宮神社をこの地に遷したといわれ、
後に家康によって元の地・すなわち現在地に再度遷されました。
そのために、ここは古御香宮と呼ばれています。


皆さんで古御香宮を参拝します。拝殿前の長い石は、
桓武天皇のものともいわれる石棺の台石なのだとか。


古御香のとなりには、桓武天皇陵墓参考地があります。
秀吉がこの地に神社を移したのは、
この地を保護する目的もあったともいわれています。


峠を越えた下り坂は、突然竹林に変わります!
光秀もこうした道を望みを捨てずに通って行ったのかもしれません。


竹林の細道の途中には、
弘法大師が杖をついて水を湧きださせたという杖の水
今も大切にされていました。



やがて竹林を抜けると、小栗栖や醍醐の街並みが広がります。
この辺りは光秀と交流のあった人物(勧修寺晴豊)の領地で、
光秀もここまで来てホッとしたのではないかと、山村先生が語ります。


こちらは小栗栖八幡宮。平安時代からの由緒を持つ古い神社です。
いよいよ小栗栖へと入ってきました


小栗栖一帯にある本経寺境内には、明智光秀供養塔が立っています。
一般的にはこの辺りの竹藪で農民の長兵衛に脇腹を刺されて
最期の時を迎えたとされ、終焉の地との立て看板もあります。
ただ、山村先生によると、光秀の死には不可解な点も多いそうですよ。


同じく本経寺境内一角の藪地には、明智藪の石碑もあります。
京都検定でも明智藪の祟りの話が出てきますね。
それだけ光秀には無念があったと思われていたのでしょう。


小栗栖の地で刺された光秀は、一説にはしばらく逃げるものの、
もはやこれまでと家臣に介錯を求め、首を切られたといわれます。
その胴を埋めた胴塚が、小栗栖からしばらく歩いたところに残されています。


さて、胴塚からは地下鉄の小野駅から東山駅へと移動して、
首を埋めたと伝わる首塚を目指しました。
光秀は知恩院へ自らの首を運んで供養してほしいといったとも伝わりますが、
真相は謎に包まれています。


その首塚を管理し守っているのが、近くにある和菓子屋・餅虎さん。
名物の光秀饅頭を頂きます。薄皮まんじゅうで、黒糖と抹茶の二種類があります。
なぜか抹茶味が人気(笑)餅虎さんからはお茶も頂きました。
お心遣いに感謝感激です。



明智光秀の足跡をたどる散策も今回が最終章
光秀は何を思い、小栗栖へとたどり着いたのか・・・
実際に歩いてみることで思いを重ねることができたかもしれません。
胴塚や首塚が伝説として残されているところにも、歴史のロマンを感じますね。

今回はじっくりと歩く散策でしたが、
普段は歩くことの少ない道ばかりだったと思います。
ご参加頂きまして、ありがとうございました。



                                  ご案内 / らくたび代表・山村 純也
                          受付・添乗・文・写真 / らくたびレポーター・吉村 晋弥
  


Posted by らくたび  at 01:13Comments(0)山科~醍醐エリア