2009年08月29日

晩夏のナイトウォーキング 閑寂な社寺と京都御苑



本日は地下鉄鞍馬口駅から先斗町界隈まで歩きます。
結構な距離になりそうなイメージです。

まずは地下鉄鞍馬口駅から東に向かって、上御霊神社をめざし歩き出しました。
途中の右手に 猿田彦神社 があります。



この神社の社伝によると桓武天皇は、この社の託宣(たくせん:神のお告げ)
によって平安遷都を決意し、延暦12(793)年には勅願によって
社殿が造営されたそうです。
祭神は猿田彦大神と天鈿女命(あめのうずめのみこと)の2座で
皇居造営に当たっては、この社の土でもって地鎮の神事を
執り行われていたそうです。

このように歴史に深くかかわりを持つ神社なのですが、
ただ歩いているだけでは見落としてしまいそうな可愛い神社です。



ここから東へ100mほど歩くともう 上御霊神社 です。
早良親王や井上内親王、橘逸勢、吉備真備など、非業の死を遂げた人々を祀る神社で、
鳥居近くには「応仁の乱勃発地」という石碑があります。

境内は、その雰囲気から時代劇の撮影にもよく使われるとか。
京都ではいろんなところが映画撮影に利用されているようなので、
今まで、なんとなく見ていた時代劇ですが、これからは観かたを変えて、
「これはあの神社かな」などと見るのが楽しみになるかも知れません。



続いて 相国寺 を訪ねました。ここでは、らくたびツアーならではの
サプライズがありました。

ここの墓地に有名な三人の方が眠っておられます。
伊藤若冲(江戸時代後期の画家、錦市場の青物問屋の出身、相国寺の僧が命名)、
足利義政(鎌倉幕府8代将軍、東山文化に貢献、応仁の乱を招く)、
藤原定家(小倉百人一首、新古今和歌集を編纂、冷泉家の祖先)が
並んで葬られています。

なぜこの3人が並んでいるのかは、たまたま歴史の中でそうなったとか、
歴史って不思議ですね。

相国寺といえば、宗旦狐の話が有名ですね。小さなお社ですが、
夕闇の中ここだけ電灯が灯されている光景は、
狐が如何にお坊さんに可愛がられていたかを想像することができます。



ここから 京都御所 の朔平門(さくへいもん)に向かって進みます。
頬を撫でる風はいつしか秋の気配を感じます。もうあたりは真っ暗、
秋の虫の声と我々の足音だけが御苑を賑わしています。

人影はほとんどなく、昼間の御苑とはまるで違う雰囲気です。
一人でこの雰囲気を味わうことはまずないでしょうね。
らくたび一行のお蔭です。

御所の北東角の猿ヶ辻では「満れば欠くる世の習い」から、
あえて完成させなかったこと(完成の後は衰退になるとの考えから)、
そして鬼門封じの猿の説明を聞きました。

そろそろ歩き疲れて喉が渇いてきました。梨木神社の染殿井の
あの柔らか~い水が楽しみでしたが、夜はポンプの電源が切られているようで、
喉を潤すことが出来ませんでした。残念。



丸太町通を横切り、 下御霊神社 (元は出雲路の上御霊神社の南にあったことから
下御霊神社と呼ばれるようになったと伝えられている)に到着。

この南側には西国三十三所の中で唯一の尼寺であり、
町堂と言われ民衆に親しまれていることで有名な革堂(行願寺)に
着いたのですが、もうすでに閉門されており参拝できませんでした。



ここから東へ2~3分の距離で維新の志士 桂小五郎 、後の 木戸孝允 の屋敷が
あったところがあります。この邸宅は、木戸孝允のご子息である木戸忠太郎氏が
昭和18年京都市に寄贈され、現在京都市の職員会館「かもがわ」の
一角にあります。

また木戸忠太郎氏が収集され、寄贈された数万とも言われる
達磨が並ぶ達磨堂が建っていました。
よほどの歴史マニアでなければ訪れないところかも知れませんね。



このあたりから、最終目的地の三条、先斗町あたりまで
幕末から明治時代にかけての歴史史跡の宝庫を歩きます。

まず がんこ寿司・高瀬川二条苑 になっているところは、
元・山縣有朋邸であり、元・角倉了以邸だったそうです。
鴨川からこの邸宅の庭を通って高瀬川に水を引いています。
森鴎外の「高瀬舟」で有名な高瀬川の一之船入には、
底が平たく舷側の高い高瀬舟が一艘ありました。

幾松 は、幕末の頃倒幕運動に大きな役割を果たした
維新の三傑の一人である桂小五郎と三本木の芸妓幾松
(のちの松子夫人)の木屋町寓居跡です。

佐久間象山寓居跡、武市瑞山先生寓居跡、ちりめん洋服発祥地、
吉村寅太郎寓居跡など、そこかしこに石碑が立っています。



最後は、 酢屋・龍馬寓居跡 です。龍馬が近江屋で遭難する直前まで
身を寄せ海援隊京都本部が置かれていた酢屋嘉兵衛宅で、
入口には、坂本龍馬寓居の跡の石碑が立っています。

来年のNHK大河ドラマが坂本龍馬を主人公とする「龍馬伝」と決まりました。
これから幕末や龍馬関係の史跡が賑やかになることが予想されるので、
その前に訪れられることをお勧めします。

山村さんから、今後夏に限らずこうしたものも企画していきたい旨の
ご挨拶がありました。

今後の素晴らしい企画に期待を寄せて、解散となりました。
お疲れ様でした。


文・写真/らくたび会員 鴨田一美様


  
タグ :京都幕末


Posted by らくたび  at 18:21Comments(2)御所~下鴨エリア

2009年08月29日

西陣の町家文化財 冨田屋で過ごす夏の茶話会



国の登録有形文化財の指定を受けた町家冨田屋さんを訪ね、
夏のしつらえ等についてお話を聞いた後、お抹茶をいただく
と言うのが本日の主要な内容です。

集合場所の西陣織会館へバスで向かっていると、心配していたとおり
雨が本降りになって来ました。どうやら夕立のようです。
もう少し余裕を見て西陣織会館に到着していれば、
内部の見学も出来たのですが、今回は残念ながら諦めることにしました。



西陣 は、応仁の乱で山名宗全が率いた西軍の本陣跡地に広がった
絹織物の産地です。
また、ここには、 村雲御所跡 の碑が立てられています。
これは、豊臣秀次の生母・瑞龍院日秀尼が秀次の菩提を弔うため、
村雲の地に創建されたお寺ですが、堀川通の拡張工事が始まる昭和37年、
滋賀県近江八幡に移築されました。

西陣の中心をなす今出川大宮は古く 「千両ヶ辻」 と呼ばれ、
1日に千両に値する生糸が動いたといわれるほど賑わったそうです。

ここから堀川通を少し下ルと安倍晴明を祭神とする 晴明神社 があります。
境内には、晴明の念力で湧き出て、飲むと悪病難病が治ると伝えられている
晴明井があります。最近の占いブームの影響か若い女性の姿が
多く見受けられます。また最近では特に修学旅行生に大人気の
スポットのひとつだそうです。

今日の散歩の安全を祈願して、さあ出発です。



晴明神社を出て、西の方角に進むと数分で 冨田屋 さんに到着します。
冨田屋さんは、元々伏見で両替商を営んでいました。
その後西陣産地問屋システムを立ち上げ、明治18年に
現在の商家を建てられたそうです。

玄関の外観は見るからに「京の町家」という雰囲気です。
らくたび会員の安達さんにお迎えをいただき、早速案内していただきました。

この建物は、1999年に国登録有形文化財指定、
2007年に京都市景観重要建造物に指定というすごいものです。
我々素人にもそのすごさが伝わってきます。



座敷に案内していただくと、「アンティーク着物展」が開催されており、
冨田屋さん代々のお嬢様や奥様の着物が展示されていました。
中には今ではもう再現不可能なものもあるとか。
大変貴重なものを拝見することが出来ました。

離れ座敷に通じる廊下には、切れ目のない約10mの赤松の廊下があり、
歴史と重厚さを感じさせられます。離れ座敷に通されると、
ふすまは「すだれ」に、畳には「あじろ」が引かれ、
見た目にも夏の雰囲気が伝わって涼しく感じられます。

昭和10年に増築された離れのうち、とくに茶室は
武者小路千家官休庵九代家元・千宗守氏より
「楽寿」の名を頂いたそうです。



今まで抹茶を頂く機会はあっても、このように本格的な茶室での経験は
全く初めてのことで、不安と興味津々の入り混じった心境です。

高さ・幅が60cm少しの小さな出入口であるにじりぐちから茶室に入ります。
正座をして一礼、そのまま、両拳をついて膝で進むような動作で
体を滑らせて茶室に入ります。
まさに「にじって入る」そのもので、普段テレビなどでよく見る光景です。

これは、地位・身分の高い人にも頭を下げさせる、という目的で
作られたもので、武士は刀を差したままでは
入りにくくなっているのだそうです。
今回、最も心配していた正座については、安達さんからの
「足を崩してどうぞ!!」の一言にホッと胸を撫で下ろしました。

お茶を頂く前にお菓子が出されます。感動したのは、
菓子鉢から懐紙に菓子を移すお箸の作法です。安達さんから、
懇切丁寧にお箸の持ち方、使い方について教えていただきました。

毎日使っているお箸ですが、その使い方によって、
物凄く上品に且つ無駄の無い仕草があることを気づかせていただきました。
食物を豪快に口に運ぶのも悪くはないでしょうが、
こういう仕草、所作も大切だなあと反省させられました。
安達さん、お箸に限らずこのようなマナーなど改めて教えてくださいね。



冨田屋さんを後にして、堀川通を渡り現在の一条戻り橋を東に進みます。
油小路通を下ルと楽家家元・楽美術館があります。
楽焼は、千利休の指導の元で、聚楽第建造の土を使って焼いたもので、
豊臣秀吉から聚楽第の一文字「楽」を印章に賜ったことが
始まりとされる説が広く知られています。
楽焼は、あの柔らかい釉薬の手触りにホッとした温もりを感じることが出来、
大好きな焼物のひとつです。



雨のぱらつく蒸し暑い日でありましたが、ご参加の皆さん、安達さん、
らくたびスタッフの皆さんお疲れ様でした。ありがとうございました。


文・写真/らくたび会員 鴨田一美様


  
タグ :京都冨田屋


Posted by らくたび  at 18:04Comments(0)西陣~北野エリア

2009年08月08日

真夏のナイトツアー 六道まいりと陶器市散策



長い梅雨がようやく明けた途端、真夏の暑さです。16時というのに
強烈な西日が照りつける中を、南座前から出発し、先ずは 建仁寺 に寄りました。



建仁2(1202)年栄西によって開創された京都最古の禅寺です。
京都五山の三位の寺格、開山の栄西は日本へ最初に茶を紹介した人物、
国宝の「風神雷神図屏風」を所有など、見所満載のお寺ですが、
他の五山の寺が皆京都の街中から一寸離れた場所に
位置しているのに対し、ここ建仁寺は北が祇園、西が宮川町と
二つの花街に接していると言うのが面白いですね。

しかし、そこは禅寺、境内は落ち着いた雰囲気に包まれています。
山村さんから沢山の建仁寺の歴史に関する話しが有りましたが、
ここでは一寸面白かった「龍図」の話を紹介します。

禅寺に「龍図」は付きものですが、建仁寺の龍は二匹の龍が描かれた
「双龍図」で、又、爪の数が普通日本の龍は三本であるのに対し、
ここの龍は五本の爪を持つ「五爪の龍」であります。

五爪の龍は中国の皇帝しか使うことが許されてなかったそうですが、
それは昔の話、現在はそのような取り決めはなく、誰でも自由に
描くことができるという訳で、実は建仁寺の龍図は
2002年に小泉淳作氏により描かれたものです。



六道珍皇寺は建仁寺のすぐ南に有りますが、ちょっと東の 安井金比羅宮 へ寄りました。
崇徳上皇に絡む、なかなかややこしい歴史を持つ神社ですが、
なんと言ってもここは“縁切り”のご利益で有名です。

境内には縁切りの願いを記した絵馬が沢山吊るされ、
「縁切り・縁結び碑」の表面には願い事を書いたお札が山の様に
ビッシリと貼られて、ちょっと異様な感じです。

この碑にはスマートな人が通れる位の穴が空いており(私は無理)、
縁切りだけでは無粋という訳か、表から穴をくぐって縁を切り、
次に裏からもう一度くぐって良縁を結ぶというのが作法だそうです。



今日の目的地の 六道珍皇寺 に来ました。
京都には普段は殆ど人が来ないのですが、ある時だけ大勢の人で
賑わう寺社が有って、ここ珍皇寺は、まさにそういうお寺です。

お盆の前の8月7日から10日にかけて、ご先祖様の霊を迎える
「六道まいり」 という行事が行われます。
高野槙を買い求め、水塔婆に先祖の戒名を書いてもらい、
お迎えの為の「迎え鐘」を引いて撞きます。
高野槙の葉で水塔婆に水をかけて供養すると、槙の葉に乗って
先祖の霊が家に戻って来ると言われてます。

そして、8月16日に「五山の送り火」でご先祖の霊を、又あの世に
送り戻すというのが、京都でのお盆のしきたりとなってます。
今日も沢山の方々が参られてました。
庶民に綿々と続く歴史というものを感じました。

珍皇寺のもう一つの顔が小野篁の「冥土通い」伝説です。
平安時代の官僚であり歌人でもあった小野篁は、昼は朝廷に仕え、
夜はこの珍皇寺に有る井戸をつたって地獄に行き、
閻魔大王を補佐する仕事をしていたと伝わります。

境内には、閻魔大王の像と並んで、小野篁の像が有りますが、
長身で彫りの深い偉丈夫だった小野篁とは、
正にこういう人物であったであろうと思わせる立派な像です。
東に葬送の地である「鳥辺野」に続くこの辺りは「六道の辻」と
呼ばれ、この世とあの世の境界にあたると言われてきました。



すぐ近くの 西福寺 の横には「六道の辻」の石碑が建っており、
西福寺ではこの時期に限って「檀林皇后九相図」や「地獄絵」を公開しています。

九相図とは人が死んでウジが湧き、白骨化して最後は土に帰る有様を、
九段階の絵に描いたものです。絶世の美人であった檀林皇后も、人間最後は
皆同じく土に帰るという事を言っているのですが、リアルですよ。



またこの辺りに 轆轤(ろくろ)町 という町名が有りますが、
これは元は髑髏(どくろ)から来たのではとも言われてます。
とにかく“死”と切り離せない場所がこの地なのですね。



珍皇寺を後にし、 六波羅蜜寺 を経て 五条坂 に出ましたが、
今通ってきた辺りは、平安末期の平家絶頂期には平氏の屋敷が
5000以上甍を連ねた場所だそうです。

平家は都落ちの際に、六波羅一帯を全部焼き払ったため、
何も遺構は残ってませんが、現在の町名の幾つかにかつての平家一族が
確かにこの地で栄華を極めた証拠として残ってます。

写真の「門脇町」は、平教盛(清盛の弟)の屋敷が
惣門の脇に有ったので、この名が付いたそうです。
平家滅亡後の鎌倉時代に西国と朝廷の監視所として設置された
「六波羅探題」もこの地に有りました。
数年前までは学校の敷地内にその石碑が立ってましたが、
今は学校は再建中で石碑も確認できませんでした。

が、六波羅探題という名前は広く知られた名前なので、
再建後に又石碑を建てて貰いたいですね。
私も、数年前に初めてここが六波羅探題の有った場所です
と教えて頂いた時は、妙に感激した記憶が残ってます。
何も遺構は無くても、石碑一つで充分という場所も有りますよね。

この後、五条坂を 陶器祭 を見ながら 若宮八幡宮社 まで行き、解散となりました。
が、凄い暑さの中での散策だったので、大半の方は、解散後も集団で
ビールが飲める屋台の場所まで行き、歓談の一時を過ごして
今日の散歩は終了となりました。

京都の歴史と伝統・習わし、そして伝説までぎっしり詰まった
中身の濃い六波羅の散策でした。


文・写真/らくたび会員 坂田肇様


  


Posted by らくたび  at 16:24Comments(0)祇園~円山エリア

2009年08月02日

夏の夜坐と祇園ビアガーデン



今回は坐禅体験がメインの京都さんぽ。体験する場所は
通常非公開寺院である建仁寺塔頭のひとつの両足院です。

16時に四条大橋東詰にある南座前に集合した一行は
目的地である両足院を目指します。



両足院 に到着後、お寺の方より両足院の歴史と坐禅の仕方を
お話していただきました。

両足院は龍山徳見禅師(りゅうざんとっけん)が創建した知足院に始まります。
のちに両足院に改称されました。この龍山徳見禅師は22歳で中国に渡り
禅を学び45年に亘り中国で過ごされました。
林浄因(りんじょういん)という中国僧と共に帰国をし、
帰国後は建仁寺・南禅寺・天龍寺等の住持を務めました。
一緒に帰国をした林浄因という僧侶が中国で食されていた
肉まんの中身(肉)を小豆に変えて
日本で初めて饅頭を作った人物だそうです。

建仁寺へはよく来ますがこの話は初めて聞き非常に驚きました。



歴史の後は坐禅の方法です。坐禅は姿勢を調える事から始まります。
これを調身といいます。

まず座布団の上に坐り足を組みます。足の組み方は両足をももの上にのせる
「結跏趺坐(けっかふざ)」 と片足だけをのせる 「半跏趺坐(はんかふざ)」
があります。坐りやすい方で良いそうです。

手は組んだ足の上に重ねるようにして置き、目は開いた状態で行います。
1m前方に落とすと自然と半眼状態になります。
背筋はまっすぐ伸ばし頭のてっぺんが天井に着くイメージで。
そして、おヘソの約9cm下にある 丹田 (たんでん)という場所に
重心を置くのが理想だそうです。

続いて呼吸を調えます。これを 調 といいます。
呼吸方法は腹式呼吸で鼻からゆっくり吐き、そして吸います。
この時丹田から吐き出す感じで行うと呼吸が調うそうです。

最後に心を調えます。これを調心といいます。
心を調えるということは雑念を取り除くということです。
しかし、簡単には取り除くことはできませんよね(笑)

そして、いよいよ坐禅体験のスタートです。
10分の坐禅を2回行います。休憩は1分。
途中、お寺の方が 警策 (けいさく)を持って前を歩かれます。
集中力を欠くときや姿勢が悪いと受けなければなりません。
自ら受ける事もでき受ける前後は必ず合掌をします。
私も合掌して自発的に受けましたが非常に痛かったです。
しかし、冷水を浴びせられた後のような爽快感?! が得られ
気持ちが引き締まる思いでした。

初めて坐禅を体験しましたが呼吸が難しく中々上手くいきません……
幸い呼吸をあまりにも意識するので余計な雑念はなかったように思います。

参加された方の中で時間が短く感じた方がいらっしゃいましたが、
私は10分が非常に長く感じられたのが本音です。



その後、両足院を後にした一行は夕暮れ時の祇園界隈や巽橋を
散策しました。昼間とは違った雰囲気があり風情がありました。



最後は南座の向かいにある レストランキエフ でビアガーデンのはずが……
夕立があったため急遽室内での開催となりました。
31日にあった京都さんぽ「愛宕山千日詣」の登山話を聞きながら
楽しい時間を過ごしました。残念ながらご来光遥拝は
叶わなかったそうです。来年こそは是非ご来光をみたいものですね。


文/らくたび会員 森田和宏様  写真/らくたび会員 鴨田一美様


  
タグ :京都座禅


Posted by らくたび  at 16:12Comments(0)祇園~円山エリア