2010年02月27日

平安京聚楽第の遺跡と洛中随一の酒蔵・佐々木酒造



普段あまり訪れない平安京内裏跡や秀吉の作った聚楽第跡地を散策し、
出水の七不思議を巡ります。
コースの最後は、佐々木酒造さんを特別に見学させていただき、
お酒の試飲も楽しめるという、ちょっと変わった「らくたび」っぽい
ツアーです。JR二条駅前には40名を超える参加者が集いました。



まずは平安京の朱雀大路だった千本通りを北へ上がって、
出世稲荷 に着きました。もうここは平安京の大内裏の中です。

出世稲荷の名は、天下人となった豊臣秀吉の聚楽第に後陽成天皇が
行幸した時に、立身出世を遂げた秀吉に因んで聚楽第の中にあった稲荷社に
天皇から「出世稲荷」の号を授けられたのが由来だそうです。

千本通りをさらに北上し、千本丸太町の交差点にきました。
ここは朝堂院の北端になります。そして交差点のすぐ北の路地を入った
内野児童公園に 大極殿跡 の大きな石碑が建ってました。
何かややこしいですね。

大内裏は東西約1.2km、南北約1.4kmの大きさで、朝堂院や豊楽院といった
行政・国家行事・饗宴を行う殿舎と、天皇の居住する内裏が
設置されている区域でした。今で言う霞ヶ関の官庁街と皇居を
一緒に含んだものが大内裏です。大極殿は朝堂院の正殿となります。

平安神宮が実は朝堂院を模して8分の5の縮小で建てられたものです。
という事は、平安京の朝堂院は平安神宮の倍の大きさだったという事ですね。
いやさぞ壮観だった事でしょう。

ところが残念な事に、威容を誇った内裏も、周りの官庁街も何度もの火災に遭い、
天皇は火災の度に貴族の屋敷を臨時の御所として使用し、ついに1392年、
土御門東洞院が長く皇居として定着し、現在の京都御所の前身となりました。

元の内裏の周辺は荒廃し、内野と呼ばれる様になり、妖怪などが登場する
寂しい地に成っていったと言われてます。
その内野の地に、豊臣秀吉は 聚楽第 という大邸宅(城)を建てたのでした。
周りは家臣の大名屋敷が取り囲み、寂れていた内野の地も、
大変活況を呈したそうです。が、秀吉に子供の秀頼が誕生すると、
秀吉は、聚楽第の主にしておいた甥の秀次を自害に追いやり、
聚楽第を徹底的に破壊します。

もうひとつ、この辺りの秀吉の心情と言うのは理解できない所です。
そして、一時の賑わいを見せていた聚楽第のあった内野の地は、
再び昔の荒地に戻っていったそうです。という事で、
昔の面影は全く残っていません。残念ですね。



出水の七不思議を廻る前に 弘誓寺 に立ち寄りました。
このお寺は、豊臣秀頼にとってはほとんど唯一の幼馴染であった
忠臣の木村重成のお墓があるそうです。
山村さんが、大阪夏の陣での木村重成の最後を、熱く語って下さいました。



出水の七不思議 とは、出水通り近くにある六つのお寺に伝わる
七つの不思議話の事です。二つほど、ご紹介させて頂きます。

一番有名なのは 光清寺の「浮かれ猫」 でしょうか? 
絵馬に牡丹の花と一緒に描かれている猫が、近所の五番町の遊郭から
聞こえてくる三味線の音に浮かれて踊りだしたという話です。
又、七不思議ではありませんが、この光清寺には作庭家の
重森三玲氏による庭が有り必見です。

五劫院の「寝釈迦」 というのは、小門の木目が、
お釈迦様が寝ている姿に見えるというもので、これは七不思議の中でも、
なかなかの傑作だと思います。



七本松通りを北に行くと 立本寺 です。
立本寺は、日蓮宗京都十六本山の一つで、開山は日蓮上人の孫弟子にあたる
日像上人。又この寺でも幽霊子育飴の伝説が伝わっており、その理由はと言うと、
あの東山の幽霊子育飴の話で、飴によって命を助けられた赤ん坊が
成人して偉くなり、この寺の日審上人になったという話です。
凄い、凄すぎる話ですね。



境内を通り抜け、墓地にやって来ました。
ここには島原の名妓であった吉野太夫を身請けし妻とした
豪商の灰屋紹益や戦国大名の石田三成の軍師の島左近の墓がありました。

灰屋紹益の吉野太夫に対する熱い愛情は、結婚後12年で若死にした
吉野太夫の遺灰を、毎日少しずつ酒盃の中に入れて、
吉野を偲びながら全部飲んでしまったと言う話からも窺えます。
これも凄い話ですね。



そして島左近。

三成に過ぎたるものが二つあり、島の左近と佐和山の城

と言われた名将・猛将の島左近です。
山村さんから三成が島左近を召抱えた時のエピソードが紹介されました。
三成は自分は行政能力では誰にも負けないが、実戦の経験が無く
戦は苦手な事を充分に自覚しており、それを補う為に
猛将で聞こえた島左近を家臣にしたのですが、その時、
自分の知行(三成が水口4万石の城主の時)の半分の2万石で
召抱えたという事です。これを聞いた秀吉は、おもわず笑って
三成を誉め、島左近も三成の男気に感激し、
生涯の忠臣となったという事です。

戦国時代ファン(私?)にとっては、たまらない話ですね。



水上勉の小説「五番町夕霧楼」で有名な五番町遊郭の跡を通り、
松林寺 に出ました。この松林寺の門前が前に深く落ち込んでいますが、
それが秀吉の建てた聚楽第の堀の跡らしいという事です。

続いて 上京歴史探訪館 を訪れましたが、この辺りは、内裏の真っ只中で、
近年整備されたのでしょうか、多くの石碑や説明板が
通りのあちらこちらに立ってました。



さあ最後のお楽しみ、 佐々木酒造 に着きました。
俳優の佐々木藏之介さんの実家だそうです。
本日は佐々木晃さんから酒造りの工程など、丁寧な説明がありました。

その後はお楽しみの試飲タイム。「聚楽第」という名の、
いかにもご当地というお酒も味わえました。
そして皆さんお土産のお酒を買ったり、佐々木さんと写真を撮ったりと、
充分に盛り上がった本日の「京都さんぽ」でした。


文・写真/らくたび会員 坂田肇様


  


Posted by らくたび  at 16:51Comments(0)二条城エリア

2010年02月13日

冬の大原 初午大根焚きと静かなる建礼門院の里



暦の上では春を迎えたとはいえまだまだ寒さの厳しいこの日、
京都市内から北へおよそ12km、のどかな田園風景が広がる大原を散策しました。



大原といえば

♪ 京都 大原 三千院、恋に疲れた女が一人~♪

と歌われるようになんとなく静かなイメージが浮かびますが、
京都さんぽの一行は賑やかに大原バス停をスタート。
呂川に沿って続くゆるやかな参道を上がり、豪壮な石垣が
その格式を物語る三千院の御殿門前に到着しました。



三千院の拝観前にまずは周辺の散策からです。

勝林院 は声明(しょうみょう:仏教音楽)の根本道場であり
鎌倉時代には天台宗の僧と法然上人が浄土教について論じた
「大原問答」の舞台となったお寺です。

2008年秋にJR東海の“そうだ京都、行こう”で紹介された時には
多くの方が訪れたとか。

宝泉院 は柱を額縁に見立てた室内から五葉松と
竹林が美しい庭園を眺める「額縁庭園」のお寺として人気上昇中。

実光院 では初秋から春にかけて開花する不断桜と紅葉を
同時に楽しめるそうです。どのお寺も四季折々に訪れてみたいものです。



そしていよいよ 三千院 へ。三千院は平安初期、伝教大師(最澄)が
比叡山に開いたお堂に始まります。
中世以降に来迎院、勝林院、往生極楽院などのお寺を管理するため
ここ大原の地に移ったそうですが、その後、大徳寺の近くに移転。

しかし戦乱、焼失などで移転を繰り返し、現在地に戻ってこられたのは
明治4年。つい100年程前までは現在の京都府立病院あたりにあった
ということです。えっー?!ずっと大原で歴史を刻んでこられたと
思い込んでいたので・・・驚きでした。

そんな長い歴史の流れの中で元永元(1118)年に堀川天皇第二皇子以来、
皇族出身者がご住職を務められる門跡寺院となり、
青蓮院、妙法院、とともに天台宗三門跡寺院の一つであげられる
非常に格式の高いお寺でもあります。



一年を通して様々な行事が行われていますが、この日は
幸せを呼ぶ初午大根焚き」が行われていました。
「幸せを呼ぶ」となると非常に気になる行事です。

しかし、まずはお参りから。三千院の境内は非常に広く、
その中に平安時代から現代までの仏像、お堂、庭園、石仏などが
融合しています。最も歴史があるのが寛和2(986)年建立の往生極楽院。
三千院の源ともいえるお堂でこちらにお祀りされているのは
阿弥陀三尊像(国宝)です。1000年を超える時の中で多くの人々の
願いを叶えてこられた仏様は庭園の木々に溶け込むように簡素な
お堂の中で優しく迎えて下さったことが印象的でした。
次はお待ちかねの大根焚きへ向かいます。



この 大根焚き は参拝者の方がよい1年を過ごせるように・・・と願い
毎年2月の初午にあわせて開催されています。大原の方々が有機農法で
愛情一杯に栽培された大根は出世金色不動明王のご利益を
いただけるよう特別祈祷され、特製のお出汁でじっくり焚かれ、
ほっかほっかの大根焚きとなって参拝者にふるまわれます。

では、ありがたく、いただきましょう!熱々でしかも大きい!
お腹と心に沁み入る美味しさに早くも幸せがやってきたようでした。



お腹を満たした一行は 寂光院 へと向かいます。
小川がせせらぎ、畑が広がる静かな道をのんびりと歩くこと20分。

ここ寂光院は推古2(594)年に聖徳太子が父・用明天皇の菩提を
弔うために建立されたというとても長い歴史のあるお寺で、
代々高貴な家の姫君達が法灯を守り続けてこられたそうです。

平清盛の娘・徳子(高倉天皇の皇后、安徳天皇の母)も
そんな女性の一人でした。皇后として一時は栄華を極めた徳子ですが、
壇ノ浦の戦いで平氏は源氏に敗れます。徳子は我が子・安徳天皇の
最期を見届けた後、自らも海に身を投じたのですが
図らずも源氏の手によって助け出されました。

そして京へ戻り出家をし、建礼門院となって36歳で生涯を閉じるまで
この地で我が子と滅亡した平家一門の菩提を弔う日々を過ごされたのです。

宝物殿には壇ノ浦の戦いの時の船の一部が残されていましたが、
すべてを失ってしまった建礼門院はこの小さな木片を
我が子や家族の形見として冥福を祈り続けたのかもしれません。

思ひきや 深山の奥に住居して 雲井の月をよそに見んとは     
建礼門院徳子


(栄華を極めていた自分が本来なら宮中から見るはずの月を
こんな山深いところから眺めることになるとは思ってもいませんでした)

『平家物語』の「大原御幸」にはそんな建礼門院を義父である
後白河法皇が訪ねてこられる場面が描かれています。
その美しくも哀しい描写を山村先生よりお話いただき、
この日の京都さんぽの締めくくりとなりました。

冬の大原は確かに寒い所でした。しかし寒い時期だからこそ、
静寂な空気に包まれた三千院の阿弥陀様と心静かに対面し、
ほっかほっかの大根焚きに人の温かさを感じ、
建礼門院の哀しみにほんの少し近づくことができた気がします。

また参加者の皆さんとも「こんな寒い時期の大原は
京都さんぽでないと来られないなぁ」と意見が一致したのも
嬉しいことでした。参加者の皆さま、山村先生、寒い中お疲れさまでした。


文/らくたび会員 森明子様  写真/らくたび会員 鴨田一美様


  


Posted by らくたび  at 15:41Comments(0)大原~八瀬エリア