2008年07月20日
早朝の蓮観賞と花園散策

法金剛院の蓮の花を見学する為に花園駅に早朝8時に集合しました。
花園駅集合は、この4月の「春の双ヶ丘ハイクと御室桜」に続き2回目です。
4月は駅前の花水木が満開の春でしたが、今日は完全な夏日です。
未だ朝の8時というのに、既に汗が噴き出しています。さあ出発です。
法金剛院 は駅前の通りを渡ってすぐの所です。ここは京都には珍しい
律宗の寺院で、歴史は古く平安時代の初め、右大臣清原夏野の山荘に
始まります。平安時代の末の大治5(1130)年に鳥羽天皇の中宮である
待賢門院が復興し、法金剛院とされました。昔は広大な敷地に
九体阿弥陀堂や三重塔など多くの御堂が建つ大寺院でした。
花園駅集合は、この4月の「春の双ヶ丘ハイクと御室桜」に続き2回目です。
4月は駅前の花水木が満開の春でしたが、今日は完全な夏日です。
未だ朝の8時というのに、既に汗が噴き出しています。さあ出発です。
法金剛院 は駅前の通りを渡ってすぐの所です。ここは京都には珍しい
律宗の寺院で、歴史は古く平安時代の初め、右大臣清原夏野の山荘に
始まります。平安時代の末の大治5(1130)年に鳥羽天皇の中宮である
待賢門院が復興し、法金剛院とされました。昔は広大な敷地に
九体阿弥陀堂や三重塔など多くの御堂が建つ大寺院でした。

一歩中に入っていくと、もう蓮の花で一杯です。参道や礼堂の前には
鉢植えの蓮の花がびっしりと咲いており、また池も水面も見えないほど
蓮で覆われてます。皆さん庭を回遊しながら、蓮の花の写真撮影に
頑張っておられました。
鉢植えの蓮の花がびっしりと咲いており、また池も水面も見えないほど
蓮で覆われてます。皆さん庭を回遊しながら、蓮の花の写真撮影に
頑張っておられました。

ここの庭園は平安時代の数少ない遺構として国の
特別名勝になっている、極楽浄土を模した浄土庭園です。最古の人工の滝
と言われる青女の滝が現存しています。蓮の花を堪能した後、もう一つの
見所である仏像を見に仏殿に入っていきます。定朝の曾孫弟子の院覚作と
伝わる丈六の阿弥陀如来像は平等院鳳凰堂や法界寺のそれと同じく、
定朝様の藤原仏です。
「大きいな・・・」というのが第一印象でした。廬山寺と桔梗、梨木神社の
萩など、京都には“花と寺社”のペアが素敵な場所が沢山あります。
同じ行くならそのお寺の花が一番綺麗な時期に伺うと、
より思い出に残ると思います。
特別名勝になっている、極楽浄土を模した浄土庭園です。最古の人工の滝
と言われる青女の滝が現存しています。蓮の花を堪能した後、もう一つの
見所である仏像を見に仏殿に入っていきます。定朝の曾孫弟子の院覚作と
伝わる丈六の阿弥陀如来像は平等院鳳凰堂や法界寺のそれと同じく、
定朝様の藤原仏です。
「大きいな・・・」というのが第一印象でした。廬山寺と桔梗、梨木神社の
萩など、京都には“花と寺社”のペアが素敵な場所が沢山あります。
同じ行くならそのお寺の花が一番綺麗な時期に伺うと、
より思い出に残ると思います。

という事で「蓮の花の寺」の法金剛院を後にし、東に10分も歩くと
妙心寺 です。全国に約6000有る臨済宗のお寺で、妙心寺派はその半数以上の3500
にのぼると言われ、まさに「妙心寺の算盤面」といえる勢力です。
建武4(1337)年、花園法皇の開基、開山は関山慧玄。47もの塔頭がある
大寺院で見所が多すぎますので(?)今日は一切拝観せずに、山村さんの
説明を聞きながら南総門から北東へと境内を抜けて行きました。
妙心寺 です。全国に約6000有る臨済宗のお寺で、妙心寺派はその半数以上の3500
にのぼると言われ、まさに「妙心寺の算盤面」といえる勢力です。
建武4(1337)年、花園法皇の開基、開山は関山慧玄。47もの塔頭がある
大寺院で見所が多すぎますので(?)今日は一切拝観せずに、山村さんの
説明を聞きながら南総門から北東へと境内を抜けて行きました。

説明された伽藍、塔頭は、浴室(明智風呂)、法堂(狩野探幽の
雲龍図)、鐘楼(この中にある鐘は2代目。初代の国宝の黄鐘調の鐘は
法堂内部に保管)、退蔵院(如拙の国宝の瓢鮎図:レプリカ、元信の庭、
中根金作の余香苑)、霊雲院(狩野元信が逗留、西田幾多郎の墓)、
玉鳳院(開山堂「微笑庵」:開山の関山慧玄を祀る)、海福院(開基の
福島正則の話、等持院の方丈はここからの移築)、桂春院などなど。
ここで、妙心寺の法堂の巨大な柱の丸太は、富士山麓から切り出されて、
伏見で陸揚げされ、京都で丸太を引き運んだ道が「丸太町通り」の
由来となったという、久々に「へえ~」という話も聞けました。
雲龍図)、鐘楼(この中にある鐘は2代目。初代の国宝の黄鐘調の鐘は
法堂内部に保管)、退蔵院(如拙の国宝の瓢鮎図:レプリカ、元信の庭、
中根金作の余香苑)、霊雲院(狩野元信が逗留、西田幾多郎の墓)、
玉鳳院(開山堂「微笑庵」:開山の関山慧玄を祀る)、海福院(開基の
福島正則の話、等持院の方丈はここからの移築)、桂春院などなど。
ここで、妙心寺の法堂の巨大な柱の丸太は、富士山麓から切り出されて、
伏見で陸揚げされ、京都で丸太を引き運んだ道が「丸太町通り」の
由来となったという、久々に「へえ~」という話も聞けました。

視界の中に、塀の向こうに立派な大きな木が見えます。何処の何と言う
塔頭から聳えている樹かも解らないので、思わず、
♪この木何の木 気になる木♪
と口ずさんで、写真を撮ってしまいました。
塔頭から聳えている樹かも解らないので、思わず、
♪この木何の木 気になる木♪
と口ずさんで、写真を撮ってしまいました。

妙心寺を出て、北に10分位歩いて 等持院 山門に到着です。
少し歩くと立派な銅像が立っています。「日本映画の父」と呼ばれる
マキノ(牧野)省三の碑で、1932年まで、ここに等持院撮影所が在りました。
俳優の長門裕之、津川雅彦兄弟は牧野省三氏のお孫さんだそうです。
ようやく等持院に到着です。
少し歩くと立派な銅像が立っています。「日本映画の父」と呼ばれる
マキノ(牧野)省三の碑で、1932年まで、ここに等持院撮影所が在りました。
俳優の長門裕之、津川雅彦兄弟は牧野省三氏のお孫さんだそうです。
ようやく等持院に到着です。

暦応4(1341)年、足利尊氏の開基で、開山は夢窓疎石、臨済宗の
お寺で、五山十刹の制の中で十刹の筆頭(一位)の寺格のお寺です。
夢窓疎石作の名庭には、足利義政好みの茶室清漣亭や足利尊氏の
お墓が有ります。初代足利将軍のお墓にしては、余りにも質素
というか、こぢんまりしていました。
ここでは、霊光殿の歴代足利将軍の木像も必見です。
戦をしたら滅法強いが、反面情に厚く優しい人と言われた尊氏は
何となく上品な顔に見えます。室町時代の絶頂期の将軍ゆえか、
傲慢な顔の“三代義満”、やはり話通りの神経質そうな“八代義政”
など見る者を飽きさせません。
と書きましたが、私たちは、これら像を見る前に、その将軍たちの
事を前もってあれこれ知識として持っているので、今書いた様な
印象になるのかも知れませんね。例えば義満が大変慈悲に富んだ
優しい将軍だったとしたら、この義満像をみて、ふくよかな
大きな耳の優しい顔の義満像などと思うのかもしれませんね。
お寺で、五山十刹の制の中で十刹の筆頭(一位)の寺格のお寺です。
夢窓疎石作の名庭には、足利義政好みの茶室清漣亭や足利尊氏の
お墓が有ります。初代足利将軍のお墓にしては、余りにも質素
というか、こぢんまりしていました。
ここでは、霊光殿の歴代足利将軍の木像も必見です。
戦をしたら滅法強いが、反面情に厚く優しい人と言われた尊氏は
何となく上品な顔に見えます。室町時代の絶頂期の将軍ゆえか、
傲慢な顔の“三代義満”、やはり話通りの神経質そうな“八代義政”
など見る者を飽きさせません。
と書きましたが、私たちは、これら像を見る前に、その将軍たちの
事を前もってあれこれ知識として持っているので、今書いた様な
印象になるのかも知れませんね。例えば義満が大変慈悲に富んだ
優しい将軍だったとしたら、この義満像をみて、ふくよかな
大きな耳の優しい顔の義満像などと思うのかもしれませんね。

等持院の庭は衣笠山を借景にしていますとなっていますが、今は
立命館大学の建屋が視界を遮っており、残念ながら衣笠山は
殆ど見えません。が、鉄筋コンクリートの建築物はどの位の年数、
耐えられるのでしょうか?
今居る等持院など日本建築は木造ゆえに、長い年月が経っても、
その間に何回もの修復作業が行われてきて、今日までその昔の姿を
私たちに見せてくれています。コンクリート造りの場合は
修繕などが可能なのでしょうか?もしそうでないならば、
その内コンクリート造りの建物は寿命と共に無くなってゆきます。
その後何を立てるかで、衣笠山の借景が復活する日も
期待できるかな等、取り留めのない事を考えた次第です。
この後、立命館大学で解散となりました。
早朝散策でしたが、記録に残る暑さの中でのツアーではなかったか
と思います。
参加者の皆さん、らくたびさん、本当にお疲れ様でした。
立命館大学の建屋が視界を遮っており、残念ながら衣笠山は
殆ど見えません。が、鉄筋コンクリートの建築物はどの位の年数、
耐えられるのでしょうか?
今居る等持院など日本建築は木造ゆえに、長い年月が経っても、
その間に何回もの修復作業が行われてきて、今日までその昔の姿を
私たちに見せてくれています。コンクリート造りの場合は
修繕などが可能なのでしょうか?もしそうでないならば、
その内コンクリート造りの建物は寿命と共に無くなってゆきます。
その後何を立てるかで、衣笠山の借景が復活する日も
期待できるかな等、取り留めのない事を考えた次第です。
この後、立命館大学で解散となりました。
早朝散策でしたが、記録に残る暑さの中でのツアーではなかったか
と思います。
参加者の皆さん、らくたびさん、本当にお疲れ様でした。
文/らくたび会員 坂田肇様 写真/らくたび会員 鴨田一美様
2008年07月12日
祇園祭 鉾の曳き初めと山鉾町めぐり

京都の夏は 祇園祭 から始まります。1ヶ月にわたるお祭の期間の中でも、
特に賑わいを見せるのが山鉾建ての始まる7月10日から17日の巡行まで1週間。
そんなお祭気分真っ只中の7月12日(土)京都さんぽ「祇園祭・鉾の曳き初め」
が開催されました。
皆さん、この日を待ちわびていた様子で、集合場所では団扇を片手に
「暑いな~」と言いながらも、お顔は笑顔、笑顔。
参加者が40名と多かったこともあり、「山村先生チーム」と「若村先生チーム」の
二手に分かれて烏丸御池をスタートしました。
ここでは山村先生チームの散策の様子をご紹介させていただきますね。
烏丸御池を西に行くと衣棚(ころもだな)通に出ます。
この通りは豊臣秀吉の時代にできたもので、かつては名前の通り
お寺関係の衣を扱う店が軒を連ねていました。
平安京建設時、正方形に区画された町に、通りを1本通すことにより
商工業の活性化を目指したのだとか。
しかし、そんな秀吉も当時から既に発展していた地区には
手をつけなかった・・・それが現在、山鉾町となっている地区です。
こんなことからも祇園祭がいかに古くから、
民衆と関わりを持っていたかがわかります。
特に賑わいを見せるのが山鉾建ての始まる7月10日から17日の巡行まで1週間。
そんなお祭気分真っ只中の7月12日(土)京都さんぽ「祇園祭・鉾の曳き初め」
が開催されました。
皆さん、この日を待ちわびていた様子で、集合場所では団扇を片手に
「暑いな~」と言いながらも、お顔は笑顔、笑顔。
参加者が40名と多かったこともあり、「山村先生チーム」と「若村先生チーム」の
二手に分かれて烏丸御池をスタートしました。
ここでは山村先生チームの散策の様子をご紹介させていただきますね。
烏丸御池を西に行くと衣棚(ころもだな)通に出ます。
この通りは豊臣秀吉の時代にできたもので、かつては名前の通り
お寺関係の衣を扱う店が軒を連ねていました。
平安京建設時、正方形に区画された町に、通りを1本通すことにより
商工業の活性化を目指したのだとか。
しかし、そんな秀吉も当時から既に発展していた地区には
手をつけなかった・・・それが現在、山鉾町となっている地区です。
こんなことからも祇園祭がいかに古くから、
民衆と関わりを持っていたかがわかります。

新町通に入ると、最初の見学地、 紫織庵 へ到着しました。
ここは大正15年に室町随一の豪商によって建てられ、現在は
襦袢のお店兼町家美術館として営業されています。洋館と和室が
調和した構造は当時としては非常に珍しいものだったそうです。
宵山の期間中、山鉾町の旧家や老舗では「屏風祭(びょうぶまつり)」
が開かれ、これも祇園祭の楽しみ方の一つなのですが、
もちろんこちらでも見ることができました。
町家のしつらえとともに見事な屏風や美術品を鑑賞し、
美意識の豊かさを感じながらも、町家の持つ涼しげな雰囲気に
しばし暑さを忘れ、ほっこり。
ここは大正15年に室町随一の豪商によって建てられ、現在は
襦袢のお店兼町家美術館として営業されています。洋館と和室が
調和した構造は当時としては非常に珍しいものだったそうです。
宵山の期間中、山鉾町の旧家や老舗では「屏風祭(びょうぶまつり)」
が開かれ、これも祇園祭の楽しみ方の一つなのですが、
もちろんこちらでも見ることができました。
町家のしつらえとともに見事な屏風や美術品を鑑賞し、
美意識の豊かさを感じながらも、町家の持つ涼しげな雰囲気に
しばし暑さを忘れ、ほっこり。

さて、次は 六角堂(頂法寺) へ向かいます。
ここは平安京建設以前からある長い歴史を持つお寺で、下京の町堂
として信仰を集めてきました。江戸時代には鉾の巡行順を決める
「くじ取式」もこちらで行われていたそうです。
六角堂の名前の由来は本堂が六角形であることからなのは
有名な話ですが、隣接するビルのシースルーエレベーター
(向かって一番左のみ)からはその姿を確認することができました。
ここは平安京建設以前からある長い歴史を持つお寺で、下京の町堂
として信仰を集めてきました。江戸時代には鉾の巡行順を決める
「くじ取式」もこちらで行われていたそうです。
六角堂の名前の由来は本堂が六角形であることからなのは
有名な話ですが、隣接するビルのシースルーエレベーター
(向かって一番左のみ)からはその姿を確認することができました。

再び、山鉾町へ戻った一行は、鯉山、山伏山、などの
町会所の説明を聞きながら外から見学し、産業会館前で一旦解散後、
それぞれお目当ての鉾の曳初に参加しました。
山や鉾は巡行当日は曳き手しか曳くことはできません。
しかしこの日は誰でも参加OK。「動く美術館」と呼ばれる山鉾を
間近で見ることができ、また、この綱を曳くと
1年の厄除けになると言われています。
町会所の説明を聞きながら外から見学し、産業会館前で一旦解散後、
それぞれお目当ての鉾の曳初に参加しました。
山や鉾は巡行当日は曳き手しか曳くことはできません。
しかしこの日は誰でも参加OK。「動く美術館」と呼ばれる山鉾を
間近で見ることができ、また、この綱を曳くと
1年の厄除けになると言われています。

この日は土曜日ということもあって、私が向かった 菊水鉾 には
たくさんの人がスタンバイされていました。
10トンもの大きな鉾を、しかも囃子方さんも乗っているのに、
事前練習なしで曳いて大丈夫なのかと少々不安でしたが、
正面に立つ音頭取りの合図で大きな鉾はギシギシと音をたてて
動き出しました。途中、障害物を避ける時も意外にも皆の息が合い、
ピッタリと止まったことに感動!!
山や鉾はこの曳初で不具合が見つかると、17日の巡行に向けて
修正をされるそうです。
たくさんの人がスタンバイされていました。
10トンもの大きな鉾を、しかも囃子方さんも乗っているのに、
事前練習なしで曳いて大丈夫なのかと少々不安でしたが、
正面に立つ音頭取りの合図で大きな鉾はギシギシと音をたてて
動き出しました。途中、障害物を避ける時も意外にも皆の息が合い、
ピッタリと止まったことに感動!!
山や鉾はこの曳初で不具合が見つかると、17日の巡行に向けて
修正をされるそうです。

再集合の後、皆さんそれぞれの曳初体験談に話を咲かせていると
なにやら細い(ホントに細い)道へ入って行きました。
ここは 膏薬図子 (こうやくずし)と呼ばれる図子(細い道)で、
かつてこの地に空也上人が平将門の霊を弔って道場を建てた
ことから、「空也供養図子(くうやくようずし)」と呼ばれていたのが、
いつのまにか「膏薬図子」となってしまったそうです。
クランクしながらも四条通から綾小路通までちゃんとつながる
風情のある道でした。
綾小路通で伯牙山の会所飾りが行われる 杉本家住宅 の説明を聞き、
綾傘鉾、鶏鉾の様子を見ながら四条烏丸に戻り、
この日の京都さんぽは終了となりました。
なにやら細い(ホントに細い)道へ入って行きました。
ここは 膏薬図子 (こうやくずし)と呼ばれる図子(細い道)で、
かつてこの地に空也上人が平将門の霊を弔って道場を建てた
ことから、「空也供養図子(くうやくようずし)」と呼ばれていたのが、
いつのまにか「膏薬図子」となってしまったそうです。
クランクしながらも四条通から綾小路通までちゃんとつながる
風情のある道でした。
綾小路通で伯牙山の会所飾りが行われる 杉本家住宅 の説明を聞き、
綾傘鉾、鶏鉾の様子を見ながら四条烏丸に戻り、
この日の京都さんぽは終了となりました。
文/らくたび会員 森明子様 写真/らくたび会員 鴨田一美様