2013年04月30日
4/27 幻の都・長岡京 春爛漫!霧島ツツジと牡丹の競演
4月27日のらくたび京都さんぽは、
わずか10年で姿を消した幻の都・長岡京の大極殿跡を歩き、
乙訓寺では牡丹を観賞し、長岡天満宮では
真っ赤な霧島ツツジに囲まれた参道を通りぬけました。

出発は、阪急の西向日駅。
駅からすぐの場所に、長岡宮の朝堂院跡の史跡公園があります。
長岡京の中心は実は向日市にあります。

さらに、大極殿跡へ。
大極殿は国の重要な儀式や政治を行う場所で、まさに都の中心。
山村先生から都の概要や、平安京に移った経緯などが語られました。

続いて、南真経寺へ。
かつては真言宗でしたが、日蓮宗を京都に広めた日像上人によって
日蓮宗へと改宗したお寺です。先生から日像上人の苦労話が語られます。

そして向日神社。
長い参道は桜が美しいのですが、この日は新緑も輝いていました。

本殿は室町時代に建てられた古建築で
国の重要文化財に指定されています。

向日神社は丘の上にあり、
神社のとなりには乙訓地域最大の古墳もあります。

さて、向日神社からしばらく歩いて、
牡丹が美しい乙訓寺へとやってきました。

ちょうど牡丹は見頃で、番傘が趣を添えています。
参加者も大満足だったようです。

最後に長岡天満宮へ。
遠くからでも霧島ツツジが目立っていました。

霧島ツツジは、まさにこの日がピークとも言えるほどの見事さ!
深紅に彩られた参道を歩いて参拝させて頂きました。

今回は長岡天満宮で解散です。
前半は、長岡京や向日市に秘められた歴史に触れ、
後半は、いずれも見ごろの牡丹や霧島ツツジを眺めることができました。
特に花は見事でまさに最高の時期だったのではないでしょうか。
今回はご参加いただきましてありがとうございました。

5月の連休も、らくたびでは大阪・滋賀と小旅行の散策が続いて行きます。
多くの皆様のご参加、お待ちしております!

ご案内 / らくたび代表・山村 純也
受付・添乗・文・写真 / らくたびレポーター・吉村 晋弥
わずか10年で姿を消した幻の都・長岡京の大極殿跡を歩き、
乙訓寺では牡丹を観賞し、長岡天満宮では
真っ赤な霧島ツツジに囲まれた参道を通りぬけました。
出発は、阪急の西向日駅。
駅からすぐの場所に、長岡宮の朝堂院跡の史跡公園があります。
長岡京の中心は実は向日市にあります。
さらに、大極殿跡へ。
大極殿は国の重要な儀式や政治を行う場所で、まさに都の中心。
山村先生から都の概要や、平安京に移った経緯などが語られました。
続いて、南真経寺へ。
かつては真言宗でしたが、日蓮宗を京都に広めた日像上人によって
日蓮宗へと改宗したお寺です。先生から日像上人の苦労話が語られます。
そして向日神社。
長い参道は桜が美しいのですが、この日は新緑も輝いていました。
本殿は室町時代に建てられた古建築で
国の重要文化財に指定されています。
向日神社は丘の上にあり、
神社のとなりには乙訓地域最大の古墳もあります。
さて、向日神社からしばらく歩いて、
牡丹が美しい乙訓寺へとやってきました。
ちょうど牡丹は見頃で、番傘が趣を添えています。
参加者も大満足だったようです。
最後に長岡天満宮へ。
遠くからでも霧島ツツジが目立っていました。
霧島ツツジは、まさにこの日がピークとも言えるほどの見事さ!
深紅に彩られた参道を歩いて参拝させて頂きました。
今回は長岡天満宮で解散です。
前半は、長岡京や向日市に秘められた歴史に触れ、
後半は、いずれも見ごろの牡丹や霧島ツツジを眺めることができました。
特に花は見事でまさに最高の時期だったのではないでしょうか。
今回はご参加いただきましてありがとうございました。
5月の連休も、らくたびでは大阪・滋賀と小旅行の散策が続いて行きます。
多くの皆様のご参加、お待ちしております!
ご案内 / らくたび代表・山村 純也
受付・添乗・文・写真 / らくたびレポーター・吉村 晋弥
2013年04月11日
4/11 西行桜と洛西の春日大社・大原野神社へ
今春、らくたびが企画した【 17日間連続!とっておきの桜さんぽ 】
13日目の本日は、私の地元・洛西方面を散策しました。
11時半に阪急桂駅を出発し、市バスにて洛西へ!
大原野めぐりの起点となるのは「 南春日町バス停 」
この辺りが「 春日 」と呼ばれるのは、大原野神社が「 春日大社 」の
分霊を祀ることにちなむものです。
こちらから、まずは、願徳寺に向かい、国宝に指定される仏さまを拝観。
「 ここまで来た甲斐があった 」と皆さんを納得させる美しさでした。
続いては「 花の寺 」と称される勝持寺へ。

こちらも知る人ぞ知る仏像の宝庫。非常に珍しいポーズをした薬師如来や、
日光・月光菩薩、十二神将 、仁王像、西行像がお祀りされています。
勝持寺は平安末期~鎌倉にかけての歌僧・西行が出家をした寺。
西行が愛した桜は「 西行桜 」と呼ばれ、いつしか寺は「 花の寺 」と
呼ばれるようになりました。


西行桜は散っていましたが、紅しだれ桜は満開です!
1週間前は参拝者で境内は混雑していましたが、今日はほぼ貸切状態!
新緑も同時に楽しむことができました。
続いて、大原野神社へ。

長岡京遷都によって、藤原氏が氏神・春日大社への参拝が不便になり、
この地に分霊を祀りました。
なので、社殿前には・・・狛鹿が!

ちなみに私が子どもの頃は春日大社同様に、本物の鹿がいたんです!
花々もきれいに咲いていました。


咲き誇った姿が千の眼があるように見えることから名づけられた
「 千眼桜 」は開花の時期がとても短く、なかなか花を目に
することができません。多少散っていますが・・・でもラッキーです!


弘法大師が42歳の厄除け祈願をされたことから「 西山のお大師さん 」と
呼ばれる正法寺
こちらも紅しだれ桜も十分見頃です!
「 京都の桜、終わってなかったんやね 」との声が。ええ、そうなんです。
京都は桜の種類が豊富なので、まだまだ楽しんでいただけるんですよ!
最後は・・・ 名物・草もち でおやつタイム♪

西山は京たけのこの産地。おみやげにお買い上げになった方もありました。

花を愛で、のんびりと散策し、本日の京都さんぽは終了となりました。
「 桜さんぽ 」シリーズなので、皆さまに「 桜、楽しめましたか? 」と
お伺いしたところ・・・ 皆さまから「 OK
」をいただくことができました!
よかったです。
皆さま、遠いところお越しいただき、ありがとうございました。
このコース、秋にも歩きたいな~!
らくたび 森
13日目の本日は、私の地元・洛西方面を散策しました。
11時半に阪急桂駅を出発し、市バスにて洛西へ!
大原野めぐりの起点となるのは「 南春日町バス停 」
この辺りが「 春日 」と呼ばれるのは、大原野神社が「 春日大社 」の
分霊を祀ることにちなむものです。
こちらから、まずは、願徳寺に向かい、国宝に指定される仏さまを拝観。
「 ここまで来た甲斐があった 」と皆さんを納得させる美しさでした。
続いては「 花の寺 」と称される勝持寺へ。
こちらも知る人ぞ知る仏像の宝庫。非常に珍しいポーズをした薬師如来や、
日光・月光菩薩、十二神将 、仁王像、西行像がお祀りされています。
勝持寺は平安末期~鎌倉にかけての歌僧・西行が出家をした寺。
西行が愛した桜は「 西行桜 」と呼ばれ、いつしか寺は「 花の寺 」と
呼ばれるようになりました。
西行桜は散っていましたが、紅しだれ桜は満開です!
1週間前は参拝者で境内は混雑していましたが、今日はほぼ貸切状態!
新緑も同時に楽しむことができました。
続いて、大原野神社へ。
長岡京遷都によって、藤原氏が氏神・春日大社への参拝が不便になり、
この地に分霊を祀りました。
なので、社殿前には・・・狛鹿が!
ちなみに私が子どもの頃は春日大社同様に、本物の鹿がいたんです!
花々もきれいに咲いていました。
咲き誇った姿が千の眼があるように見えることから名づけられた
「 千眼桜 」は開花の時期がとても短く、なかなか花を目に
することができません。多少散っていますが・・・でもラッキーです!
弘法大師が42歳の厄除け祈願をされたことから「 西山のお大師さん 」と
呼ばれる正法寺
こちらも紅しだれ桜も十分見頃です!
「 京都の桜、終わってなかったんやね 」との声が。ええ、そうなんです。
京都は桜の種類が豊富なので、まだまだ楽しんでいただけるんですよ!
最後は・・・ 名物・草もち でおやつタイム♪
西山は京たけのこの産地。おみやげにお買い上げになった方もありました。
花を愛で、のんびりと散策し、本日の京都さんぽは終了となりました。
「 桜さんぽ 」シリーズなので、皆さまに「 桜、楽しめましたか? 」と
お伺いしたところ・・・ 皆さまから「 OK

よかったです。
皆さま、遠いところお越しいただき、ありがとうございました。
このコース、秋にも歩きたいな~!
らくたび 森
2012年05月11日
2012年5月4日 天王山の戦いと大山崎を歩く

5月4日(祝)のらくたび京都さんぽは、羽柴秀吉と明智光秀が激突した
大山崎の天王山周辺を歩きました。
天王山の山頂にも登り、道中で山崎の戦いの物語も聞かせて頂きます。
この日は弱い雨が降ったり止んだりでしたが、その分空気は澄んで涼しく、
遠くの景色もよく見える散策日和でした。
出発はJRの大山崎駅。なんと駅前には、千利休が手掛けた唯一現存するお茶室を
持つ妙喜庵があります。交通の要衝として、深い歴史を持つのが大山崎です!

山村先生が本日の行程を説明中。指差す先に、目指す天王山があります。
皆さん、歩きやすい服装で来られています。

いよいよ天王山へ!初めは舗装された道ですが、実はこの日有数の急な坂でした~(笑)
宝寺で知られる宝積寺を目指します。

なんとか宝積寺の前に到着。険しい坂でした~(笑)
宝積寺は、奈良時代の聖武天皇が、夢に現れた龍神から授かったという打出と小槌が
奉納されているところから宝寺と呼ばれます。
実は秀吉はこの宝寺に本陣を構えていたとの解説が!

そしてこの三重塔は秀吉が勝利の記念に、なんと一夜にして建てたという伝説が残ります!
中国大返しや墨俣一夜城だけでなく、秀吉は何をやらせても仕事が速いですね(笑)

本堂前に到着。先に閻魔堂を拝観します。中では、閻魔大王像やそのお付きの眷属が
お待ちかね。地元のボランティアガイドの方が丁寧にご説明して下さいました。
まさに閻魔庁さながらに立ちならんでいて、閻魔様の迫力あるお顔には圧倒されました!

続いて、本堂の拝観へ。本堂には天王山の額が上がります。
内部には本尊・十一面観音像や毘沙門天像などを拝観しました。こちらもボランティアの方に
丁寧にご説明して頂きました。ありがとうございました!

本堂の前には、秀吉が本陣を置いた際に腰かけたという石があります。案内板がないので、
ガイドと一緒でないと見過ごしてしまいますね。実はこの石、秀吉が天王山の戦いを制して
天下人へと駆け上ったところから秀吉の出世石と呼ばれています。今でも腰をかけると
出世ができるそうですよ~。これで昇進も間違いなし!?

宝積寺の境内から、いよいよ天王山への山道が始まります。標高は270mですが、なかなか
勾配がある山道です。足元に気をつけながら登っていきます。

登り始めて程なく、早くも抜群の眺望が待っていました!淀川や枚方・大阪の街が見渡せます。

山中に立ちならんでいるのが秀吉の道と題された、山崎の戦いの絵巻物風の説明板。
山村先生が時々刻々と変わる戦況を、分かりやすく解説して下さいました。臨場感がわいてきます!
数で劣る光秀は秀吉の大群と戦うために、大群が伸びて互角に戦えるはずのこの大山崎を、
決戦の地に選びました。

こちらは、幕末の十七烈士の墓。禁門の変で京都を追われた長州藩士は、天王山に登り、
燃えゆく京都の街を見届けて自決をしました。久留米の神官・真木和泉のお墓もこちらにありますよ。
戦国と幕末、時代を超えた歴史をしのべる天王山。山村先生の物語解説も光ります。

酒解(さかとけ)神社へと到着。神社には正式表記の「自玉手祭来酒解神社」との旗が立っていて、
たまてよりまつりきたる さかとけじんじゃと、山村先生が解説すると、一同から「おぉ~」と歓声が!

山頂へ向けていよいよ最後の登りへ。途中には八重桜が散ったピンクの道が。素敵ですね!

そして・・・ついに天王山の頂上に到着です!!一同で記念写真を撮りました。
皆様、達成感のあるお顔をされています。標高は2700m!ではなく、270m!
石も積まれていて、何やらすごい山へと登って来たよう(笑)
山頂は城跡で、意外なほど平らな場所もありました。眺望もなかなかですよ~。

足元に気をつけながら、ゆっくりと下山します。登るときには気がつかなかった緑や竹の美しさに
目が行きます。大山崎にも竹が多く、山中にはタケノコを運ぶ設備などもあります。
今の時期は竹の葉が散る「竹の秋」。時折、ハラハラと風に舞って、絵になる風景を作っていました。

真ん中の松が旗立松です。ふもとからも見えるように、秀吉は松の上に自軍の旗を立てさせたそう。
山が迫って秀吉の大群も動きにくい山崎の地に勝機を見出した光秀でしたが、先に秀吉に天王山を
取られてしまったことで、相手の士気が上がると同時に横からも攻撃を受け、勝ち目は無くなってしまった
とのでした。ここでも仕事が早い秀吉が抜きんでて、天下人への道をひた走って行ったのですね~

急な下り坂をゆっくりと下りて、山崎聖天に到着しました。

休憩をしながら、山村先生の解説を聞きます。山崎聖天は正式には観音寺といい、平安時代に
宇多法皇が創建した深い由緒を持つお寺。宇多法皇といえば、仁和寺を創建された方ですね。
聖天さんは現世利益の篤い信仰を集めています。

かつての財閥で有名な「住友」も立派な灯篭を寄進しています。

緑が綺麗な境内は山登りの疲れを癒してくれました~

最後には虹も架かってくれました。虹は意外と珍しく、太陽が高いこの時期の真昼には
見えないものです。パラパラとほどよく雨が舞う空に、太陽が低くなる夕方。まさに私たちの
下山を待ってくれていたかのような光景です!

無事に山崎駅まで戻ってきました。天王山は、道中にも社寺や史跡などたくさんや見どころがあり、
やはり山村先生の歴史物語も現地で聞くと臨場感がありました。
道々には新緑があり、美しい花も咲いて眺望もよく、楽しく歩けたのではないでしょうか。
参加者の皆様、本当にお疲れさまでした!

ご案内 / らくたび代表・山村 純也
受付・添乗・文・写真 / らくたびレポーター・吉村 晋弥
2009年04月25日
長岡天神つつじ祭と細川ガラシャを訪ねて西国街道を歩く

今日4月25日は「長岡天神つつじ祭と細川ガラシャを訪ねて西国街道を歩く」
と称して、京都市街地を離れた、京都の西南にある長岡の地の散策です。
3月中旬の早咲きの桜から始まり、ひと月にわたった
京都の桜のシーズンもようやく終わり、新緑の季節になりました。
天気も好天がずっと続き、今日も爽やかな散策日和になるかと思いきや、
どういう訳か雨となってしまいました。
が、雨にも負けず、阪急長岡天神駅から、先ずは
長岡天満宮に向かってスタートです。
と称して、京都市街地を離れた、京都の西南にある長岡の地の散策です。
3月中旬の早咲きの桜から始まり、ひと月にわたった
京都の桜のシーズンもようやく終わり、新緑の季節になりました。
天気も好天がずっと続き、今日も爽やかな散策日和になるかと思いきや、
どういう訳か雨となってしまいました。
が、雨にも負けず、阪急長岡天神駅から、先ずは
長岡天満宮に向かってスタートです。

西へ10分ほどで、 長岡天満宮 に到着です。
道路に面した階段を登ると、目の前に、大きな八条ヶ池が広がり、
池の周囲と池の中央を向こうに渡る中堤の周囲に、
真っ赤な、本当に真っ赤な キリシマツツジ が満開でした。
京都の寺院のお庭のツツジのイメージと言うと、周りとの調和の美しさ
という感じですが、ここのツツジは「これでもか」と
自己主張をしています。
特に、中堤の両側に、道を挟む様に繋がっているツツジは、
人の身の丈以上の大きさがあり、樹齢130-150年あまりの見事なものです。
池の名前は、江戸時代初期、桂離宮を造営した八条宮智仁親王が
灌漑用に作った溜池という事に由来します。
皆さん、ひとしきりツツジの写真を撮った所で、中堤を通り、
天満宮本殿に向かいました。
道路に面した階段を登ると、目の前に、大きな八条ヶ池が広がり、
池の周囲と池の中央を向こうに渡る中堤の周囲に、
真っ赤な、本当に真っ赤な キリシマツツジ が満開でした。
京都の寺院のお庭のツツジのイメージと言うと、周りとの調和の美しさ
という感じですが、ここのツツジは「これでもか」と
自己主張をしています。
特に、中堤の両側に、道を挟む様に繋がっているツツジは、
人の身の丈以上の大きさがあり、樹齢130-150年あまりの見事なものです。
池の名前は、江戸時代初期、桂離宮を造営した八条宮智仁親王が
灌漑用に作った溜池という事に由来します。
皆さん、ひとしきりツツジの写真を撮った所で、中堤を通り、
天満宮本殿に向かいました。

天満宮ですので、祭神は菅原道真公です。大宰府に左遷される折、
「我が魂、長くこの地に留まるべし」と都との別れを惜しんだと言われ、
別名「見返り天神」とも呼ばれてます。
道真の没後、家臣たちが聖廟を建てた事に始まるそうです。
しかし本当に菅原道真にまつわるエピソードは多いですね。
平成19年には、境内に紅葉庭園「錦景苑」が完成し、
この新緑の時期もなかなか綺麗でした。
秋は、もっと素敵だと思いますね。
「我が魂、長くこの地に留まるべし」と都との別れを惜しんだと言われ、
別名「見返り天神」とも呼ばれてます。
道真の没後、家臣たちが聖廟を建てた事に始まるそうです。
しかし本当に菅原道真にまつわるエピソードは多いですね。
平成19年には、境内に紅葉庭園「錦景苑」が完成し、
この新緑の時期もなかなか綺麗でした。
秋は、もっと素敵だと思いますね。

先ほど来た道を戻り、阪急線を越えて、JR長岡京駅の手前まで
やって来ました。一面に「長岡京」、もう一面に「西国街道」と彫られた
道標が有りました。
そうです。今私たちが歩いているこの地は、平安京遷都の直前の
わずか10年間ですが、都が置かれた 長岡京 の跡地です。
ここから、南へ西国街道が延びています。
西国街道は、京都の東寺に始まり、下関までの山陽道です。
西国街道の道沿いは、なかなか情緒有る町並みに整備されていました。
やって来ました。一面に「長岡京」、もう一面に「西国街道」と彫られた
道標が有りました。
そうです。今私たちが歩いているこの地は、平安京遷都の直前の
わずか10年間ですが、都が置かれた 長岡京 の跡地です。
ここから、南へ西国街道が延びています。
西国街道は、京都の東寺に始まり、下関までの山陽道です。
西国街道の道沿いは、なかなか情緒有る町並みに整備されていました。

勝竜寺城公園 に到着です。ここは戦国時代、細川藤孝(幽斎)の子の
細川忠興に明智光秀の娘の玉(後の細川ガラシャ)が輿入れをし、
3年間の新婚時代を過ごした場所だそうです。
又、この城は父光秀が秀吉と天下分け目の合戦「天王山の戦い」の際に、
明智軍の拠点の城でもありました。
織田信長の薦めによるこの結婚は、美男美女のだれもが
羨むカップルの誕生で、公園内には幸せな時代の忠興とガラシャの像が
立っています。
が、結婚して4年後の天正10(1582)年、本能寺の変が彼女の運命を変えます。
父の親友細川藤孝は父明智光秀に味方せず、父光秀は豊臣秀吉に敗れて死に、
明智家の家族も全員死亡しました。
そして関が原の前哨戦、西軍の石田三成は大阪の細川屋敷に居るガラシャを
人質として捕らえようと屋敷を包囲しますが、ガラシャは部下に胸を衝かせ
38歳の短い一生を終えます。
ちりぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ
ガラシャ辞世
逆臣の娘として世間の冷たい視線を浴び、夫細川忠興の
異常とも思える嫉妬心に苦しみ、最後はキリスト教に救いを求めた
ガラシャの辞世のこの歌は、か弱く愛らしい細川玉では無く、
何か開き直った強い意志の細川ガラシャを連想させる気がいたします。
細川忠興に明智光秀の娘の玉(後の細川ガラシャ)が輿入れをし、
3年間の新婚時代を過ごした場所だそうです。
又、この城は父光秀が秀吉と天下分け目の合戦「天王山の戦い」の際に、
明智軍の拠点の城でもありました。
織田信長の薦めによるこの結婚は、美男美女のだれもが
羨むカップルの誕生で、公園内には幸せな時代の忠興とガラシャの像が
立っています。
が、結婚して4年後の天正10(1582)年、本能寺の変が彼女の運命を変えます。
父の親友細川藤孝は父明智光秀に味方せず、父光秀は豊臣秀吉に敗れて死に、
明智家の家族も全員死亡しました。
そして関が原の前哨戦、西軍の石田三成は大阪の細川屋敷に居るガラシャを
人質として捕らえようと屋敷を包囲しますが、ガラシャは部下に胸を衝かせ
38歳の短い一生を終えます。
ちりぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ
ガラシャ辞世
逆臣の娘として世間の冷たい視線を浴び、夫細川忠興の
異常とも思える嫉妬心に苦しみ、最後はキリスト教に救いを求めた
ガラシャの辞世のこの歌は、か弱く愛らしい細川玉では無く、
何か開き直った強い意志の細川ガラシャを連想させる気がいたします。

長岡京市では、勝竜寺城跡を綺麗な公園として再建し、また、城の前の
通りも「ガラシャ通り」と名づけて、細川ガラシャゆかりの地として
観光に力を入れている様です。
先ほど行った長岡天満宮にある八条ヶ池の八条宮智仁親王は
細川幽斎から和歌の「古今伝授」を受けた人です。
この2人にゆかりの有る場所が、お互い近くに有るのも歴史の妙ですね。
通りも「ガラシャ通り」と名づけて、細川ガラシャゆかりの地として
観光に力を入れている様です。
先ほど行った長岡天満宮にある八条ヶ池の八条宮智仁親王は
細川幽斎から和歌の「古今伝授」を受けた人です。
この2人にゆかりの有る場所が、お互い近くに有るのも歴史の妙ですね。

この後、 神足(こうたり)神社 に参りました。神足、難読地名ですね。
JRの駅名も1995年8月までは「長岡京」ではなく「神足」でした。
西国街道に神足駅時代の駅名板が残されていました。
神足神社は、桓武天皇が「天から神が神足村の池に降り立ち、
宮中を襲おうとした悪霊を退散させた」という夢を見られて、
この神を祀る社を創建したと伝えられています。
神社のすぐそばに、勝龍寺城の「空堀」「土塁」跡が残っています。
とにかく歴史のある神社です。途中で止むかと淡い期待を持ってましたが、
雨はとうとう止みませんでした。
この後、西国街道を歩いた際にチェックしていました町屋喫茶で、
参加者一同歓談のひと時を過ごし、本日の京都さんぽは終了となりました。
JRの駅名も1995年8月までは「長岡京」ではなく「神足」でした。
西国街道に神足駅時代の駅名板が残されていました。
神足神社は、桓武天皇が「天から神が神足村の池に降り立ち、
宮中を襲おうとした悪霊を退散させた」という夢を見られて、
この神を祀る社を創建したと伝えられています。
神社のすぐそばに、勝龍寺城の「空堀」「土塁」跡が残っています。
とにかく歴史のある神社です。途中で止むかと淡い期待を持ってましたが、
雨はとうとう止みませんでした。
この後、西国街道を歩いた際にチェックしていました町屋喫茶で、
参加者一同歓談のひと時を過ごし、本日の京都さんぽは終了となりました。
文・写真/らくたび会員 坂田肇様