2008年01月13日

新春の風物詩 通し矢と柳のお加持

新春の風物詩 通し矢と柳のお加持

時折みぞれが散らつき、今年一番の寒さかなと思える中、
京阪七条駅前からスタートしました。
今日のポイントは新春の風物詩、三十三間堂の
「柳のお加持」「通し矢」の見学を中心に、
東山七条近辺に点在する豊臣秀吉ゆかりのスポットを巡ります。
最後に穴場の庭園の見学もあり、盛り沢山のコースです。
まずは川端通を少し上がって正面通りを右折し、東に進みます。

新春の風物詩 通し矢と柳のお加持

京都の通りの名前って、本当に色々おもしろいですね。
「天使突抜通り」や「不明門(あけず)通り」など、
なかなか意味の解らない、しかし歴史の重みを持った通り名が多々ありますが、
この「正面通り」も初めて聞いた時は“え?何の正面なの?”と必ず自問して、
でも答えが解らないと言う類の通り名でしょうか。

この通りをまっすぐ東に行くと、かつて豊臣秀吉が建てた方広寺があり、
そこには奈良の大仏をしのぐ大きさの大仏がありました。
その前の通りなので「正面通り」なのですと、
聞けば誠に解りやすい名前の付け方なのですが、
大仏も方広寺も無い現代の私達にとっては、
パズルみたいな通りの名前です。

新春の風物詩 通し矢と柳のお加持

5分くらい歩くと正面通りは終りです。眼の前は明治になってから
この地に再建された豊臣秀吉を祀る 豊国神社 です。
創建時の建物は、徳川家康によって破壊されました。
伏見城からの移築の国宝の唐門はさすがに立派で、
桃山時代の匂いが濃厚に感じられます。

新春の風物詩 通し矢と柳のお加持

豊国神社にお参りしてから、北側にある豊臣氏滅亡のきっかけとなった
「国家安康 君臣豊楽」の銘が入った 方広寺 の鐘を見学しました。
観光客に文字を見え易く、という事でしょうか。
この文字の箇所だけが無造作に白くチョークか何かで塗られているのが、
歴史を変えた重要な鐘なのに、案外と雑に扱われている様で、
少々驚きです。
この辺り一帯の広大な地が方広寺の敷地だったそうですが、
今では巨大な石垣と、巨大な鐘だけが本当に寂しく残っているだけです。
鐘楼から少し東に行った所に、大仏殿跡地がありました。
発掘調査の結果、ここに奈良の東大寺大仏殿を上回る
巨大な建物が有った事が確認されたそうです。
ここなら民家もビルも建ってませんので、
大仏殿が再建されたら嬉しいのですが、お金の面で無理でしょうね。

新春の風物詩 通し矢と柳のお加持

南に下って本日のハイライトの 三十三間堂 に着きました。
「柳のお加持」と「通し矢」で大勢の人が来ていますし、
露店も出て大層賑やかです。

「柳のお加持」は三十三間堂を建立した後白河法皇の頭痛平癒に由来する行事で、
私は初めての経験です。
これだけ多くの人にどういう風にして「お加持」を施すのかが興味ありましたが、
答えは簡単でした。
本尊の千手観音坐像の前で縁側に出て、合掌しながら前へ進むと、
お堂の前に立っておられたお坊さんが、参詣者の頭に、
加持祈祷した浄水を柳の枝でぱっと振りかけて終わりです。
ベルトコンベア方式(?)ですね。

しかし、いつもこの多数の仏像の迫力には圧倒されます。
1000体の千手観音像を作るというのは、正にビッグプロジェクトです。
現代では彫刻や絵画というと、個人で作品を作り上げるという世界
という風に思えますが、このプロジェクトX「三十三間堂の1000体仏像製作」は、
強力なリーダーと彼に従う大勢の仏師の力から生まれた訳です。
過去の日本の芸術家には、芸術家としての技量だけでなく、
強いリーダーシップを発揮できる能力も重要な要素だったのだ
とも考えたりもしました。

新春の風物詩 通し矢と柳のお加持

「通し矢」は、60m先の直径1mの的を競射するもので、
振袖に袴姿の新成人も参加し、華やかさが漂っていました。
江戸時代には、お堂の長さ一杯の120mの距離を
一昼夜に何本通すかを競う競技が人気で、
最高記録は紀州藩の和佐大八郎がうちたてた8,133本だそうです。
昔の人の体力、精神力に脱帽です。

新春の風物詩 通し矢と柳のお加持

三十三間堂の東を南に下ると、三十三間堂の南大門と太閤塀です。
南大門は方広寺の南門でした。という事は、ここより北は
全部方広寺の敷地内だった訳で、方広寺の大きさが想像されます。

東大路通りを渡ると智積院です。
国宝の障壁画で有名ですが、ここも秀吉と家康ゆかりの寺です。
ここには秀吉が長子「鶴松」の供養の為に建てた祥雲禅寺がありました。
秀吉の死後、家康は、秀吉から滅ぼされた紀州根来寺智積院の
僧玄宥に智積院再興の為この地を与えたのでした。
家康の秀吉に対する強烈な感情を感じた私でした。
智積院の北側にある妙法院の国宝の庫裏を外から見学し、
最後のスポットに向かいます。

新春の風物詩 通し矢と柳のお加持

さて、期待の穴場の庭園は、驚いた事に妙法院の北側にある
武田病院の中にありました。
積翠園 という名の、大きな池がある立派な庭です。
ここは、あの平清盛の長男であった平重盛の住居跡と言われています。
平家の遺構は殆ど何も残っていない京都市内ですが、
池が残っていたのですね。春になると、病院の患者さんたちは、
この池の周りを散策されるそうです。
800年ほど前の庭園と、現代が共存している素敵な場所でした。

新春の風物詩 通し矢と柳のお加持

この後、妙法院前で今日のツアーは解散となりましたが、実はこの後、
有志諸氏と妙法院の横の坂道を豊臣秀吉の眠る 豊国廟 まで登って来ました。
500段あまりの長い階段を上った頂上に、その豊国廟はありました。
私にとっては、この長い長い階段を登ったという達成感が、
今回のツアーのひとつの思い出となって残っていくと思われます。


文/らくたび会員 坂田様




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Posted by らくたび  at 15:18 │Comments(0)七条エリア

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