2010年07月11日

蓮が咲く法金剛院の極楽浄土と厳粛な禅風を受継ぐ妙心寺

7月11日の京都さんぽは、花園駅に13:00に集合しました。

時折、地面を叩く雨脚の激しさに戸惑いながら、法金剛院、妙心寺の法堂・浴室、
最後に妙心寺の塔頭退蔵院にてお抹茶をいただきました。 
 

 関西花の寺第十三番札所として知られている法金剛院は、
双ヶ丘の東に位置し、景勝地であった為、天長7(830)年頃には、右大臣・清原夏野の山荘が建てられました。後に「天安寺」になり、第74代鳥羽天皇中宮・待賢門院璋子が、荒廃した天安寺を大治5(1130)年に白河法皇の菩提を弔う為に復興し、寺名を「法金剛院」としました。




多幸多難な人生を歩んだ待賢門院は、魅力的な麗人だったようで、白河法皇の猶子(養子)から、鳥羽天皇の皇后となり、崇徳天皇、後白河天皇の生母となりました。しかし、待賢門院を庇護した白河法皇が崩御すると、運命は一変。美福門院との政権争いやわが子である崇徳天皇と後白河天皇の対立が生じ、やがて貴族社会の終焉と武士の台頭を本格化させました(保元の乱・平治の乱)。波瀾万丈な生涯だったのですね!

 法金剛院の本尊・阿弥陀如来坐像(重文)は、平安後期の大仏師・定朝の流れを汲む院覚の作で、古くは、平等院、法界寺とともに定朝の三阿弥陀と称されてきました。また十一面観世音菩薩(重文)は坐像のお姿で、さらに四本の手を持つ姿も他にあまり例がない珍しいものです。この仏殿で如来と菩薩の違いや九品来迎印や施無畏・与願印などを若村先生から教えてもらいました。
   
 「蓮の寺」と称される法金剛院の庭園には数多くの鉢植えや睡蓮があり、蓮荷が雨水にうたれながら、背筋を伸ばして佇む姿は優美で、待賢門院が極楽浄土をこの世に現すために作庭したのが頷けます。平安時代の滝石組の遺構である「青女の滝」は880年前の人工の滝とは思えない、清楚でたおやかな滝石組でした。
                          
滝の近くには、待賢門院堀河の歌碑があります。

    ~長からん心もしらず黒髪の 
                 乱れてけさは物をこそ思へ~  


何とも妖艶な歌ですね。待賢門院堀河は、待賢門院の落飾に殉じて出家した歌人で、
崇徳天皇や西行と歌のやり取りがありました。

 さて、庭園内を自由に散策した後は、妙心寺へ向かいます。妙心寺は、臨済宗妙心寺派の大本山で、康永元(1342)年に関山慧玄が創建し、四季折々の花が咲く花園離宮を禅寺に改めたことに始まります。全国に約3500の関係寺院があり、教団運営が安定していることから「妙心寺の算盤面」と称され、現在も境内に46の塔頭がある事・・・等の説明がありました。南総門の案内板の大きかったこと!!


法堂(重文)は、明暦2(1656)年に建立されたもので、鏡天井(つり天井)には“狩野探幽法眼守信筆”と記された「八方睨みの龍」が描かれています。想像上の龍は、口は鰐・髭は鯰・角は鹿・全体としっぽは蛇・鱗は魚・爪は鷲や鷹・目は牛を参考にしたとか!鋭い眼差しで、法堂に入るものを見据えています。建立に使用した大木を運搬する道として「丸太町通」と名付けられたお話も興味深かったです。

 梵鐘(国宝)は紀年銘文のあるものでは日本最古のもので、698年に鋳造されました。黄鐘調(おうじきちょう)鐘とも言われ、吉田兼好の『徒然草』の中に「およそ鐘のこえは黄鐘調なるべし・・・」とあり、法堂内に保管されています。現在は、テープにて音色が楽しめました。法堂外から、梵鐘の模造品の鐘の音と開山堂の鐘の音が聴こえ、三種類の鐘の音を聴くことが出来ました。


 また撞座(つきざ)と言われる鐘をつく時に木(撞木)が当たる部分は、高い位置にあるものほど時代が古いとされています。これからは、撞座も見ましょう!

音色の余韻にひたりながら浴室「明智風呂」へ向かいます。浴室(重文)は、天正15(1587)年、密宗和尚(明智光秀の母方の叔父)が光秀の志納金で浴室を設け、お経をあげながらお風呂に入られたことから明智風呂と呼ばれていますが、実際に明智光秀は浴室を使用していません。また、風呂敷の語源は蒸気を出す板敷きの隙間に直接肌が触れないように敷いた布をさすとのことです。衣類を包んだり、今では、多方面に大活躍の代物。  

 仏殿(重文)で、午後3時の時報を聞きました。鐘の音を聞く事でひとつずつ煩悩が減って行くこと、鐘を撞く事で時間を知らせる役割があったことを知りました。「時」とは、寺が日時を知らせると書くとか。なるほど!納得です。

 三門(重文)は、三解脱門を意味し、空門・無相門・無願門の三つの悟りの境地をあらわし、この門を通ると、浄土へ至るとされています。毎年、6月18日には懺法会が営まれ、内部を参拝出来ます。皆さん!忘れないで下さいね~!





 本日、最後に訪れるのは、妙心寺塔頭のひとつ、退蔵院です。退蔵院は、応永11(1404)年、妙心寺第三世無因宗因を開山として、波多野重通が創建しました。退蔵院は、方丈、大玄関がともに重要文化財で、さらに、日本の水墨画初期の代表作である、如拙の「瓢鮎図(ひょうねんず)」(国宝)があります。公案と言われる参禅者への課題「如何にして瓢箪でなまずを獲るか?」を禅問答も含めて描きあげたユニークなものです。現品は、京都国立博物館に寄託され、複製品が飾られています。解説がないと多分理解出来ないと思います!

 












庭園は、水墨画の流れに大和絵の技法を取り入れた狩野元信作庭の枯山水庭園「元信の庭」と、中根金作氏による昭和の名庭「余香苑」があります。前者は、枯滝・蓬莱山・亀島・蓮の鉢植えがある優雅な庭園で、石組みに風格がありました。後者は、三段落ちの滝が流れ落ち、細部に至っては入り口の門には瓢箪となまず、お抹茶と瓢鮎菓子をいただいた大休庵には、瓢箪をかたどった窓がありました。庵からも美しい花々がゆっくり眺められます。 

 若村先生の梅の実が熟す頃の雨を「梅雨」と言うのです・・・等、
七夕と雨にまつわるお話に耳を傾けました。時間がゆったり流れる感じです。




帰り際に、水琴窟の澄んだ音色で癒されながら、退蔵院を後にし、各自、帰路に着きました。
梅雨明けは、もうすぐ!雨の中ご参加された皆様、スタッフの皆様、お疲れ様でした。


《参考文献》
らくたび文庫 009嵐電ぶらり各駅めぐり 妙心寺
014京の仏像NAVI 如来・菩薩
015京の庭 NAVI 池泉庭園編 退蔵院・法金剛院
016京都スタァ名鑑 女性編 待賢門院 美福門院
037京の神さま仏さま 仏さま編 臨済宗 等

               執筆:らくたび会員/岩崎 真紀枝様   写真:らくたび会員/岩崎 守男様                     

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2010年05月04日

雲母坂から比叡山登山へ 阿闍梨道を訪ねて

らくたびのゴールデンウィーク恒例行事といえば“山登り”です。
これまで稲荷山(2009年)、醍醐山(2007年)、大文字山(2006年)、
高雄~嵐山(2006年)などを歩いてきました。
2010年は満を持して東山三十六峰の第一峰
比叡山(標高:848m)
に挑戦です。

集合は叡電・出町柳駅。ここから叡電に乗り
比叡山の登山口となる一乗寺駅まで向かいます。
今では秋の紅葉の名所となっている修学院・一乗寺エリアですが、
かつてはこの辺りも比叡山延暦寺の境内地でした。
当時の天台宗がいかに大きな勢力を誇っていたのかが伺えます。

一乗寺下り松は室町時代、宮本武蔵と吉岡憲法の一門の
決闘の場となった所です。
そしてここから比叡山に続く道が本日のルートとなる
雲母坂(きららざか)です。その名前の由来には諸説あるものの、
都からこの辺りを見ると雲が覆い、雲が生じるように見えたことから
雲母坂と呼ばれるようになったとのこと。
また都からの勅使(ちょくし:天皇のお使い)が歩いたことから
「勅使坂」「表坂」とも呼ばれていました。
 


坂を登りつめたところにある曼殊院の参道には
見事な新緑のトンネルが続き、お寺の白壁と相まって
爽やかな5月の風景を演出してくれていました。

しかし・・・!!散策気分はここまでです。いつの間にやら
比叡山の登り口に到着しており、普段は遠目で見ている比叡山が
すぐ間近にそびえ立っています。
山村先生からコースの案内をしていただき、いよいよ登山道に入りました。

山に入ってしばらくの間は、人が一人やっと通れるくらいの
細い道が続きます。「道を作った」というよりは
「人が歩いて踏みしめたところが道になった」という感じです。
山村先生より「歩き初めの道が一番大変です。上へ行くほど
歩きやすい道になります。」と教えていただいた通り、
登り始めの30分が一番大変でした。
 


この雲母坂は平安時代から比叡山に向かう僧侶や勅使が登った坂であると同時に、
京の都と近江を結ぶ交通の要所でもあったことから、
古来より幾多の戦陣が開かれた場でもありました。
南北朝時代には南朝方の千種忠顕(ちぐさただあき)ら数百人が
この坂で戦死されたそうです。
また比叡山で最も厳しい修行である千日回峰
(せんにちかいほう:7年間計1,000日をかけ、決められた道を歩いて修行をする)
をされている阿闍梨(あじゃり)が歩く行者道も歩きました。


そして、出発から約2時間半後、ケーブル比叡駅に到着。
ここでお昼休憩です。
美しい景色を眺めながら楽しいお弁当タイムとなりました。

午後の道は午前中とは比較にならないくらい歩きやすく、
緑の山々やヤマザクラ、ミツバツツジの花を見ることもできました。
そして景色のいい所で記念撮影。参加者のKさんより
教えていただいた比叡山でのお約束、山村先生の「比叡山!」
の掛け声とともに参加者一同が声をそろえて「ひえぇぇぇ~」
楽しい記念撮影となりました。
 


さらに歩みを進めると鎮護国家の石碑に到着。
平安京の鬼門(北東)に位置し、1,200年の長きに渡り
都を鎮護してきた比叡山延暦寺は伝教大師最澄によって
開創されて以来、浄土宗や浄土真宗、臨済宗、曹洞宗、日蓮宗を
興した高僧を輩出するなど、日本仏教会に大きな影響を与えてきました。

ここからは延暦寺の寺域に入ります。都会とは違う、
清らかな空気に包まれて歩いていると、そろそろ、ゴールかな・・・?
皆さんの期待が高まります。あっ、阿弥陀堂が見えてきました。
ついにゴールです!!


参加者24名&山村先生、全員そろって無事に到着することができました。
阿弥陀堂の前には枝垂れ桜が私達のゴールを祝福するかのように
可憐な花を咲かせてくれていました。
そしてこの後、延暦寺の中心となる根本中堂を参拝し、
この日の京都さんぽは終了となりました。


雲母坂から比叡山は確かに大変な道のりでしたが、
実際に自分の足で歩くことができて本当によかったと思います。
平安京ができる以前から若き最澄は自らこの山に入り、
民衆救済の方法を探し求めたのかと思うと、
その偉大さを改めて感じることができました。

参加者の皆さん、山村先生、本当にお疲れ様でした。
さて、来年はどこの山に登りましょうか・・・??

文/らくたび会員 森明子様  写真/らくたび会員 岩崎守男様・真紀枝様
  
タグ :比叡山登山

Posted by らくたび  at 17:34Comments(0)比叡山エリア

2010年05月03日

平城京遷都1300年記念!平城京跡見学と美仏を訪ねて

一年ぶりの 『 らくたび in 奈良 』 、そうです!、『 ならたび 』 です!

昨年は、東大寺→春日大社と王道コースでしたが、
今年はなんといっても平城遷都1300年ということで、イベントが行われている
平城宮跡に行きました。
近鉄電車・大和西大寺駅で集合だったのですが、駅に着くとそこは……
人!、人!、人~!! 
さすが遷都1300年を記念するイベントが行われているだけありますね。
駅から約15分ほど歩いたでしょうか、見えてきました! 広大な緑の芝生、
そして、すでにここからイベント会場の平城宮跡なんですね。
とにかく広さに驚きです。





この敷地内を近鉄電車が走っているんですよ~。
そういえば奈良に向かう車内から、遠くに朱雀門が見えてますよね。
あたり前ですが、電車が通るたびに遮断機が降りて、
人の通行がストップするんです。
これぞ奈良、といった風景です(笑)



平城宮跡には二つの大きな建物があります。
ひとつは 『 朱雀門 』 で、1998年に再現されたものです。
そしてもうひとつは、今回当時の建物を再建された『 大極殿 』 です。
当時は天皇の即位式や外国使節との面会など、国家的な重要儀式のために
使われた建物だったそうです。この大極殿がメインなんですが、
長蛇の列で待ち時間が1時間とも、2時間とも・・・、
さすがにこれは待てません。今度各自で訪れるとしましょう。



会場マップを見ていると 【 第一次大極殿 】 と印がありますが、
恥ずかしながら 「 なんのこと? 」 状態の私。
なんでも大極殿は、 【 第一次 】 と 【第二次 】 があったそうです。
先ほどの大極殿は 【 第一次 】 で、後に再建されたのが 【 第二次 】 です。
現在は再建されていませんが、 【 第二次大極殿跡 】 として基壇のみが
残されています。ここから見る景色もキレイですよ♪ 
遠くに青々とした若草山が印象的でした!

さて、この後は一般的な観光なら東大寺へ、となるのでしょうが。 
私たちは『 らくたびさんぽ 』 ですからね~、ちょっとディープな散策へと
至ります(笑)。



訪れたのは法華寺。奈良時代に日本総国分尼寺として建立されたという
立派なお寺です。奈良時代の権力者であった藤原不比等の邸宅跡に、
聖武天皇 (東大寺大仏さんを建てられた天皇です )のお妃様である光明皇后が
伽藍を設けられたことが始まりとされています。
その由緒から御本尊の国宝の十一面観世音菩薩像は光明皇后のお姿を刻んだと
されています。それはもう美しく優しいお顔立ちの観音様でした。
季節折々の花が咲く境内では、ミニコンサートが開かれており、
ほのぼのとした雰囲気に包まれていました。

そして次は特別公開されている十一面観音菩薩立像にお会いするため
海龍王寺へ。こちらも光明皇后ゆかりの寺院です。
皇后が自ら刻まれた十一面観音像をもとに、鎌倉時代に慶派の仏師が
刻まれた観音様です。腰をクネっとひねったようなフォルムが美しく、
すっと伸びたしなやかな腕がまた奇麗。すばらしい観音様でした。
そしてもうひとつ驚いたのは、西金堂内に建つ五重塔! それも国宝!!
天平時代の建築技法を現在に伝える貴重な文化財だそうです。
4メートルと五重塔としてはミニチュアサイズですがほんとに精密に
作られていることに感動しました(笑)

海龍王寺を後にして、ここで一時解散。
数名の方は各自お帰りになりましたが、ほとんどの参加者は駅に向かいました。
その道中、いくつかの古墳に遭遇。



知らずに見ると「 林と池 」なんですが、なんとこれが古墳!奈良というところは
普通にあのような風景を見ることができるんですねぇ。
そして第52代の平城天皇 (へいぜいてんのう )の陵墓がありました。
平安京時代の天皇の陵墓がこちらにあるんですね。知ってはいたけれど
実際に目にするとちょっと変な気がしました。帰路に平城宮跡の北側を歩いていると
大極殿が見えてきました。こちらから見える広々とした芝生の先にある大極殿も立派でした~。



奈良はどこも広々としていますね。京都とは違いなんとなくのんびりとした気持ちになります。
京都と奈良、どちらも歴史があり興味深い町です。
個人的には奈良の仏像にはまりそうです(苦笑)

みなさま、次回の【 ならたび 】が楽しみですね。
らくたびさま、楽しい奈良の企画を期待していま~す。

                                        文:らくたび会員 奥村 成美 様
                                        写真:らくたび会員 鴨田 一美 様
  

Posted by らくたび  at 17:42Comments(0)奈良エリア

2010年04月11日

毘沙門堂の観桜会と山科疏水・桜並木



春になると、今年の桜はいつまで楽しめるだろうか、
今日の花見にどれだけ桜が咲いているだろうか、
もう散りはじめかな、なんて気をもむ事しきりですが、
今年の桜シーズンは天候不順のお蔭か、意外と長く楽しめそうです。



今日の京都さんぽは、「毘沙門堂の観桜会と山科疏水・桜並木」です。
天台宗五箇室門跡の内、妙法院、青蓮院、三千院、曼殊院には
それぞれ何度が訪れる機会があったのですが、
ここ毘沙門堂へは一度もなく、ぜひ訪ねてみたいところでした。

今回の集合場所はJR山科駅、定刻には40名前後の参加者が集まっておられます。
若村さんから、本日の予定、見所などの説明を受けて、さあ出発です。



出発して間もなく、閑静な住宅街の緩やかな登り坂道を歩いていくと、
そこかしこの民家の庭に桜が咲き誇っています。
この分だと毘沙門堂の桜に期待が持てます。

途中で琵琶湖から流れ出た疏水と交差している地点に差しかかりました。
疏水の土手には沢山の桜と、目映いばかりの黄色い菜の花がいっぱいです。
そよ風に吹かれて、桜吹雪のお出迎えです。まさに春そのものです。
参加者のシャッター音があちこちから聞こえて来ます。



毘沙門堂 は703年、僧行基によって開かれたと伝えられています。
御所の北にあったのですが、度重なる戦乱から苦難の道をたどり、
1665年に山科に再建されました。
後西天皇の皇子公弁法親王が入寺して門跡寺院となりました。

ご本尊の毘沙門天は、天台宗の宗祖で比叡山を開かれた
伝教大師のご自作で、延暦寺根本中堂のご本尊である
薬師如来の余材をもって刻まれたと伝えられています。
拝観のポイントについて、説明していただきました。

<その1>
襖絵の中に面白いものがあります。梅の木には鶯、竹にはスズメが
お決まりなのですが、梅とか竹にヒヨドリとかシマヒヨドリが
描かれています。この部屋に通されたお客は、これを見て

「木と鳥が合っていない」つまり「取り合ってもらえない」

と気づかなければならないという、いかにも京都人らしい
遠まわしに意味を伝えるという部屋があるので
是非ご覧くださいとのことです。

<その2>
右から見るのと、左から見るのでは奥行きが入れ替わって見える
不思議な錯覚のする襖絵があります。
逆遠近法という手法だそうで、言葉では言い尽くせないのですが、
一度見てもらえば納得して感動していただけると思います。






境内はさすが桜の名所と言われるだけあって圧巻です。
今日はお琴の演奏もあり、琴の音を聞きながらの桜鑑賞は、
のどかで、優雅で大変素晴らしかったです。



毘沙門堂を後に、先ほどの 山科(琵琶湖)疏水 に戻り、流れに沿って歩きます。

明治2年(1869年)の東京遷都により、京都の町や人口、産業が
衰退していった折、何とかしたいと考えた第3代京都府知事北垣国道は、
琵琶湖から京都への運輸水路の開発を考えました。

当時の国家予算が7000万円。京都府の年間予算が50万円台の時代に
工費125万円をかけて、琵琶湖から鴨川落合まで、11.1kmの疏水を
明治23(1890)年完成させました。疏水の完成により

                ・ 飲料水、灌漑用水の確保。
                ・ 日本初の水力発電所(世界で2番目)の完成。
                ・ 京都市電など京都の近代化に貢献。
                ・ 日本人のみの手で行われた、誇るべき一大工事であった。
                ・ 京都市内で只一つ、北へ向かって流れる川である。


現在でも、京都御所や東本願寺の防火用水にも使われています。
当時は30石舟が行き来していました。そのため疏水に掛かる橋は、
下を船が通れるように、水面から高く作られています。



流れの速さは、人が早足で歩く程度で、いくつもの桜の花びらが
流れていました。これを 「花筏(はないかだ)」 というのだそうです。
言葉の響きと言い、とても美しい表現ですね。

また、沢山の楓の木があり、新芽が芽吹いています。
このあたりにお住まいの人は、春も秋も楽しめる環境が羨ましい限りです。
散策は勿論のこと、自転車で走れば更に爽快です。


途中に立ち寄った 吉祥山安祥寺(真言宗) は、嘉祥元(848)年、
仁明天皇の女御で文徳天皇の母、藤原順子の発願により、
入唐僧の恵運によって創建された寺で醍醐寺に匹敵する
とても大きい寺だったそうです。
非公開のため門前で説明を受けました。


しばらく、疏水に沿って桜を楽しみながら歩くと、左手に
天智天皇陵 が現れます。中臣(藤原)鎌足と謀って蘇我氏を倒し、
大化改新を行った天皇で、中大兄皇子といった人、といえば
歴史の教科書でおなじみの天皇です。

歴史の生きた教科書がこんなにも近くにあったのですから、
中学生時代にここを訪れておれば、
もっと歴史が好きになったのではないかと、後悔させられました。



散策の締めくくりは日蓮宗の 本圀寺 です。
疏水に掛かる赤い橋を渡り山手に進むと真っ赤な山門が眼に飛び込んできます。

この門はかつて加藤清正が寄進したものを復元したものだそうで、
開運勝利の神様「せいしょこ(清正公)さま」 の門をくぐると、
開運勝利の人生が開けるそうで「開運門」と呼ばれています。



仁王様も、梵鐘も、灯篭も金色づくし、こうした派手さとは対照的な
落ち着いた境内には、しだれ桜が咲いていました。

このあと、御陵駅付近に向かい解散となりました。
今回の疏水沿いの散策は、桜とのタイミングがよかったのか、
とても印象深い散策となりました。
秋の紅葉の季節にもぜひ訪れて見たい京都の穴場的な地域で、
とても気にいってしまいました。

若村さん、ご参加の皆さん、お疲れ様でした。ありがとうございました。


文・写真/らくたび会員 鴨田一美様


  

Posted by らくたび  at 12:14Comments(0)山科~醍醐エリア

2010年03月28日

隨心院「はねず踊り」と醍醐の花見



今年度最後の京都散歩スペシャルツアーは、随心院「はねず踊り」と
醍醐の花見です。集合は地下鉄東西線の小野駅改札口に午後1時です。

今回初めてお眼にかかかる方の多さに驚きました。
らくたび散歩にも変革の波が押し寄せているようです。
正にチェンジなのでしょうか。(笑)

山村さんからの事前情報によると、醍醐の桜は絶好の見ごろを迎えている
とのこと、太閤さんの気分が味わえそうで、とても楽しみです。



随心院に向かう途中の道端に大きな 榧の古木 があります。

その昔、小野小町に想いを寄せる深草少将が求愛したところ、
「百夜、通い続けたら晴れて契りを結ぶ」と約束されたそうです。
その日数を榧の実で数えていたのですが、九十九日目で
途切れてしまって想いが果たせなかったという伝説があります。
この目の前の大きな榧の木を見ていると、深草少将の気持ちが
伝わってくるように思います。

榧の古木をあとに、随心院へ向かいます。このあたりは
車道と歩道の区別がなく、かつ自動車の往来の激しいところです。
歩いていると後ろの方から「車が来ま~す、左によってくださ~い」
と大きな声が聞こえてきました。
振り返ると先日「らくたびガイド講座」を修了されたM.Iさんです。
早速の実践に頭が下がります。ありがとうございます。



随心院 では、「はねず踊り」の舞台が屋外にセットされていました。
「はねず」とは、「薄紅色」のことです。
境内の梅園には沢山の梅の木があります。
満開の時期が過ぎていたのですが、梅の花が少し残っていました。
この梅の花の色が「はねず色」といわれる色です。



さあ、 「はねず踊り」 がはじまります。

「出演は地元小学校の4年生から6年生だそうです。
静かで可憐な京都ならではの、古風で優雅な踊りです、お楽しみください」
とのアナウンスがあり、踊りがはじまりました。

この踊りは、長らく途絶えていたのだそうですが、昭和48年、復活を願う
人々の声にこたえて、古老の記憶をたどりながら甦ったのだそうです。

はねず色の衣装をまとった踊り手の身振り手振りに春を感じます。
最後まで踊りを満喫したかったのですが、時間のこともあり
ご本尊にお参りをしました。

本堂でご本尊の如意輪観世音菩薩坐像にお参りしていると大粒の雨が
降ってきました。通り雨でしょうが屋外での踊りは出来なくなり、
急きょ本堂前で演ずることになったようで、
踊り子さんの晴れ姿がお気の毒ですね。


境内には、小野小町の 化粧井戸 があり、小町が朝夕
この水を使っていたのでしょう。さしずめ「美顔の化粧水」
といったところでしょうか。
また、深草少将をはじめとして、当時の貴族から小町に寄せられた
千束の文を埋めたといわれる 文塚 がひっそりと残されていました。


随心院をあとに、住宅街の中を抜けて世界文化遺産の醍醐寺に向かいます。
この桜の観光シーズンの真っ只中だというのに、
このルートには観光客らしき人の姿は見当たりません。



途中、 醍醐天皇陵 を案内していただきました。
醍醐天皇といっても、イメージが浮かばない方は、
菅原道真を大宰府に流した天皇と思っていただければいいですよ
と言う説明に参加者から「お~~」という納得の声が上りました。

この御陵は、醍醐寺が昔から管理をされていることなどから、
醍醐天皇の御陵にまず間違いないでしょうとの説明がありました。



朱雀天皇陵を案内していただいたあと、醍醐寺の塔頭の一つである
理性院 に立ち寄りました。ここは、2007年5月4日の「京都さんぽ」で
上醍醐を訪れた際に立ち寄ったお寺です。

アルバムを開いてそのときの様子を見てみると、
本日説明していただいたように、藤棚の花がとても綺麗だったことと、
赤いよだれかけをまとった沢山のお地蔵さんが印象に残っています。
ここは、醍醐寺の穴場の一つです。

残念ながら、上醍醐の西国第十一番札所・准胝堂は、
2008年8月24日未明の落雷で焼失してしまいました。



醍醐寺 の仁王門の辺りは桜がいっぱいですが、
まだ満開には至っていないようです。

特別史跡・特別名勝の 三宝院 の表書院から見る庭園は、
豊臣秀吉が「醍醐の花見」に際して、自ら基本設計をした庭で、
桃山時代の華やかな雰囲気が感じられます。

庭の中心に位置し、阿弥陀三尊を表しているといわれ、
また歴代の武将に引き継がれていることから「天下の名石」
といわれている「藤戸石」があります。

この華やかな庭園をカメラに収めたかったのですが、
撮影全面禁止と言うことでした。

このほか、奥宸殿にある「醍醐棚」は、修学院離宮の「霞棚」、
桂離宮の「桂棚」とともに「天下の三大名棚」といわれています。



続いて寺に伝わる数々の国宝、重要文化財などが収納されている
霊宝館 へ向かいます。「准胝堂」の火災のようなことを考えると、
こうした施設は必要なのでしょうが、やはり本来のお姿で
拝見できるに超したことはないですね。

こちらの敷地の一番奥に立派な桜があると山村さんからお聞きしていたので、
楽しみにして行ってみると、ありました、ありました。
京都で一番大きな、立派な しだれ桜 です。周りにも沢山の桜があります。
この肌寒い気候のお陰か、今年の桜の時期は長く続きそうで、
十分に桜を満喫できる年になりそうです。


地下鉄醍醐駅に向かう途中、また本格的な雨が降ってきました。
桜さん、この雨に負けず、長く咲き続けて楽しませてくださいね。
山村さん、ご参加のみなさん、お疲れ様でした。
ありがとうございました。 
 

文・写真/らくたび会員 鴨田一美様
  

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2010年03月22日

滋賀遠征!!石積みのある門前町・坂本を訪ねて



京都を離れてお隣の滋賀県を散策する、初の「滋賀さんぽ」です。

すぐそこまで比叡山の裾野が広がる城下町 坂本
京都の町中とはまったく異なる風情は、どことなく格式が感じられます。
それはきっと駅から日吉大社に続く穴太積(あのうづみ)という石垣と
白壁が続く町並みのせいでしょう。

穴太積とは、石塀などに独特の技法を使ったな石積みのことで、
加工しない自然のままの石が積まれた石堀は見事で凛とした美しさです。

坂本は、比叡山と深い繋がりのある町で、
現在でもゆかりの寺院が多く建ち並んでいます。
日吉大社に至る参道に並ぶ多くのお寺は、全て比叡山の僧侶が
天台座主の許しを得て住み込む隠居坊である里坊(さとぼう)です。



その中でも、高い格式を誇る 滋賀院門跡 を訪れました。
この滋賀院は延暦寺の本坊で、江戸時代末期まで天台座主の居所でした。
院内はとても広く、狩野派の襖絵や、立派なお輿や、鎧兜を拝見しました。
私的に感動したのは、比叡山延暦寺で今も灯し続けられている
『 不滅の法灯 』 がこちらにもあったこと。
延暦寺西塔の釈迦堂で灯してあった灯籠をひとつ外して
こちらに移してこられたそうです。
その1200年以上も灯っている灯火を間近で拝見できたのは嬉しかったです。



そしてこちらにも 涅槃図 が飾られていました。
お釈迦様の入滅の悲しみを表す涅槃図。
「生きとし生ける物 全ての悲しみ」というだけあって、
こちらの涅 槃会にはなんと魚(鯉?)までもが描かれていました!
そして慈眼大師の御廟である慈眼堂がある境内の墓地には、
桓武天皇・後水尾天皇・徳川家康・紫式部・和泉式部など
多くの供養塔が祀られています。



さあ、次の目的地は、平安京の表鬼門である 日吉大社 です。

ここ日吉大社は、およそ2100年も前に創祀され、全国に3800社もの
系列神社がある総本宮です。

確かに境内はとっても広く、そして古い!
これが歴史の深さの証しなのでしょう。京都好きの私たち(?)にとっては
「 平安京の表鬼門 」 というのに興味あり!
京都御所の猿が辻・幸神社・赤山禅院、そして比叡山から日吉大社と、
厄除の社として平安京を守っています。



そして、もちろんこちらにも神様のお使いである
お猿さんが祀られています。
こちらでは「神猿(まさる)」と呼ばれています。

そして、なんと生きている本物のお猿さんもいます!
自然の山猿もそうですが、なんと檻に入ったお猿さんまでいるのです。
さすがは日吉大社ですね。 

4月には山王祭という勇壮なお祭りが行われます。
境内にある神輿収蔵庫に展示してある御神輿は桃山時代から
江戸時代に作られた豪華なものです。実際に山王祭で担ぎだされます。
お祭りの最後には琵琶湖上の唐崎沖にて御神輿への献納祭が行われる
という湖国ならではの約1300年の歴史があるお祭りです。



 たっぷりと日吉大社の歴史にふれた後は、明智光秀と一族の
菩提寺である 西教寺 を訪れました。

歴史は古く聖徳太子の創建と伝えられています。
荒廃していた頃もありましたが、慈恵大師良源上人が復興し、
念仏の道場としました。現在も不断念仏の道場とされており、
私たちが僧侶の方のお話を伺っている間もずっと心地よい静かな
鉦の音が堂内に響き渡っていました。
本堂は総欅造りで、京都のお寺には見られないずっしりとした
重みのある趣が見られました。ご本尊は定朝様式・丈六の
阿弥陀如来座像(平安時代作)でとても立派です。



客殿庭園は小堀遠州作の美しいお庭です。
歴史はもちろんのこと、拝見するものは皆素晴らしかったです。



最後に明智光秀と西教寺のお話を山村先生からたっぷりと伺いました。

織田信長の比叡山焼き討ちの際に西教寺も焼失しました。
そのとき坂本城の城主となった光秀は、西教寺の檀家になり、
復興に力を注ぎました。今の西教寺があるのも光秀の力があったからこそです。

信長を討ち、歴史ではあまり良い印象を持たない方も多いと思いますが、
光秀にとって生涯のパートナーは内室の煕子(ひろこ)様
ただ一人だったとか。ほかの女性には目もくれず
生涯ただ一人の女性を愛し続けた光秀。今もその奥様とともに
この西教寺に祀られています。とっても女性目線なお話ですが、
山村先生のお話の中で最も心をうたれました(苦笑)

城下町・坂本をたっぷりと散策しました。
京都とはまた違った深い歴史のある町です。でもどこかで必ず
京都と繋がる歴史があります。歴史って奥深いですが、
知れば知る程おもしろいですね!

滋賀院門跡・日吉大社・西教寺と、いずれも通年一般参拝可能です。
今回参加されなかった方も、ぜひ一度訪れてみてください。
きっと新しい発見があります。
そして京都との繋がりを見いだした時には感動があります。

今回参加されたみなさま、少々いつもよりよく歩きましたが、
大満足の散策でしたね。お疲れさまでした!

山村先生、次回の「滋賀さんぽ」を楽しみにしています!


文/らくたび会員 奥村成美様  写真/らくたび会員 鴨田一美様・坂田肇様

  
タグ :滋賀坂本

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2010年02月27日

平安京聚楽第の遺跡と洛中随一の酒蔵・佐々木酒造



普段あまり訪れない平安京内裏跡や秀吉の作った聚楽第跡地を散策し、
出水の七不思議を巡ります。
コースの最後は、佐々木酒造さんを特別に見学させていただき、
お酒の試飲も楽しめるという、ちょっと変わった「らくたび」っぽい
ツアーです。JR二条駅前には40名を超える参加者が集いました。



まずは平安京の朱雀大路だった千本通りを北へ上がって、
出世稲荷 に着きました。もうここは平安京の大内裏の中です。

出世稲荷の名は、天下人となった豊臣秀吉の聚楽第に後陽成天皇が
行幸した時に、立身出世を遂げた秀吉に因んで聚楽第の中にあった稲荷社に
天皇から「出世稲荷」の号を授けられたのが由来だそうです。

千本通りをさらに北上し、千本丸太町の交差点にきました。
ここは朝堂院の北端になります。そして交差点のすぐ北の路地を入った
内野児童公園に 大極殿跡 の大きな石碑が建ってました。
何かややこしいですね。

大内裏は東西約1.2km、南北約1.4kmの大きさで、朝堂院や豊楽院といった
行政・国家行事・饗宴を行う殿舎と、天皇の居住する内裏が
設置されている区域でした。今で言う霞ヶ関の官庁街と皇居を
一緒に含んだものが大内裏です。大極殿は朝堂院の正殿となります。

平安神宮が実は朝堂院を模して8分の5の縮小で建てられたものです。
という事は、平安京の朝堂院は平安神宮の倍の大きさだったという事ですね。
いやさぞ壮観だった事でしょう。

ところが残念な事に、威容を誇った内裏も、周りの官庁街も何度もの火災に遭い、
天皇は火災の度に貴族の屋敷を臨時の御所として使用し、ついに1392年、
土御門東洞院が長く皇居として定着し、現在の京都御所の前身となりました。

元の内裏の周辺は荒廃し、内野と呼ばれる様になり、妖怪などが登場する
寂しい地に成っていったと言われてます。
その内野の地に、豊臣秀吉は 聚楽第 という大邸宅(城)を建てたのでした。
周りは家臣の大名屋敷が取り囲み、寂れていた内野の地も、
大変活況を呈したそうです。が、秀吉に子供の秀頼が誕生すると、
秀吉は、聚楽第の主にしておいた甥の秀次を自害に追いやり、
聚楽第を徹底的に破壊します。

もうひとつ、この辺りの秀吉の心情と言うのは理解できない所です。
そして、一時の賑わいを見せていた聚楽第のあった内野の地は、
再び昔の荒地に戻っていったそうです。という事で、
昔の面影は全く残っていません。残念ですね。



出水の七不思議を廻る前に 弘誓寺 に立ち寄りました。
このお寺は、豊臣秀頼にとってはほとんど唯一の幼馴染であった
忠臣の木村重成のお墓があるそうです。
山村さんが、大阪夏の陣での木村重成の最後を、熱く語って下さいました。



出水の七不思議 とは、出水通り近くにある六つのお寺に伝わる
七つの不思議話の事です。二つほど、ご紹介させて頂きます。

一番有名なのは 光清寺の「浮かれ猫」 でしょうか? 
絵馬に牡丹の花と一緒に描かれている猫が、近所の五番町の遊郭から
聞こえてくる三味線の音に浮かれて踊りだしたという話です。
又、七不思議ではありませんが、この光清寺には作庭家の
重森三玲氏による庭が有り必見です。

五劫院の「寝釈迦」 というのは、小門の木目が、
お釈迦様が寝ている姿に見えるというもので、これは七不思議の中でも、
なかなかの傑作だと思います。



七本松通りを北に行くと 立本寺 です。
立本寺は、日蓮宗京都十六本山の一つで、開山は日蓮上人の孫弟子にあたる
日像上人。又この寺でも幽霊子育飴の伝説が伝わっており、その理由はと言うと、
あの東山の幽霊子育飴の話で、飴によって命を助けられた赤ん坊が
成人して偉くなり、この寺の日審上人になったという話です。
凄い、凄すぎる話ですね。



境内を通り抜け、墓地にやって来ました。
ここには島原の名妓であった吉野太夫を身請けし妻とした
豪商の灰屋紹益や戦国大名の石田三成の軍師の島左近の墓がありました。

灰屋紹益の吉野太夫に対する熱い愛情は、結婚後12年で若死にした
吉野太夫の遺灰を、毎日少しずつ酒盃の中に入れて、
吉野を偲びながら全部飲んでしまったと言う話からも窺えます。
これも凄い話ですね。



そして島左近。

三成に過ぎたるものが二つあり、島の左近と佐和山の城

と言われた名将・猛将の島左近です。
山村さんから三成が島左近を召抱えた時のエピソードが紹介されました。
三成は自分は行政能力では誰にも負けないが、実戦の経験が無く
戦は苦手な事を充分に自覚しており、それを補う為に
猛将で聞こえた島左近を家臣にしたのですが、その時、
自分の知行(三成が水口4万石の城主の時)の半分の2万石で
召抱えたという事です。これを聞いた秀吉は、おもわず笑って
三成を誉め、島左近も三成の男気に感激し、
生涯の忠臣となったという事です。

戦国時代ファン(私?)にとっては、たまらない話ですね。



水上勉の小説「五番町夕霧楼」で有名な五番町遊郭の跡を通り、
松林寺 に出ました。この松林寺の門前が前に深く落ち込んでいますが、
それが秀吉の建てた聚楽第の堀の跡らしいという事です。

続いて 上京歴史探訪館 を訪れましたが、この辺りは、内裏の真っ只中で、
近年整備されたのでしょうか、多くの石碑や説明板が
通りのあちらこちらに立ってました。



さあ最後のお楽しみ、 佐々木酒造 に着きました。
俳優の佐々木藏之介さんの実家だそうです。
本日は佐々木晃さんから酒造りの工程など、丁寧な説明がありました。

その後はお楽しみの試飲タイム。「聚楽第」という名の、
いかにもご当地というお酒も味わえました。
そして皆さんお土産のお酒を買ったり、佐々木さんと写真を撮ったりと、
充分に盛り上がった本日の「京都さんぽ」でした。


文・写真/らくたび会員 坂田肇様


  

Posted by らくたび  at 16:51Comments(0)TrackBack(0)二条城エリア

2010年02月13日

冬の大原 初午大根焚きと静かなる建礼門院の里



暦の上では春を迎えたとはいえまだまだ寒さの厳しいこの日、
京都市内から北へおよそ12km、のどかな田園風景が広がる大原を散策しました。



大原といえば

♪ 京都 大原 三千院、恋に疲れた女が一人~♪

と歌われるようになんとなく静かなイメージが浮かびますが、
京都さんぽの一行は賑やかに大原バス停をスタート。
呂川に沿って続くゆるやかな参道を上がり、豪壮な石垣が
その格式を物語る三千院の御殿門前に到着しました。



三千院の拝観前にまずは周辺の散策からです。

勝林院 は声明(しょうみょう:仏教音楽)の根本道場であり
鎌倉時代には天台宗の僧と法然上人が浄土教について論じた
「大原問答」の舞台となったお寺です。

2008年秋にJR東海の“そうだ京都、行こう”で紹介された時には
多くの方が訪れたとか。

宝泉院 は柱を額縁に見立てた室内から五葉松と
竹林が美しい庭園を眺める「額縁庭園」のお寺として人気上昇中。

実光院 では初秋から春にかけて開花する不断桜と紅葉を
同時に楽しめるそうです。どのお寺も四季折々に訪れてみたいものです。



そしていよいよ 三千院 へ。三千院は平安初期、伝教大師(最澄)が
比叡山に開いたお堂に始まります。
中世以降に来迎院、勝林院、往生極楽院などのお寺を管理するため
ここ大原の地に移ったそうですが、その後、大徳寺の近くに移転。

しかし戦乱、焼失などで移転を繰り返し、現在地に戻ってこられたのは
明治4年。つい100年程前までは現在の京都府立病院あたりにあった
ということです。えっー?!ずっと大原で歴史を刻んでこられたと
思い込んでいたので・・・驚きでした。

そんな長い歴史の流れの中で元永元(1118)年に堀川天皇第二皇子以来、
皇族出身者がご住職を務められる門跡寺院となり、
青蓮院、妙法院、とともに天台宗三門跡寺院の一つであげられる
非常に格式の高いお寺でもあります。



一年を通して様々な行事が行われていますが、この日は
幸せを呼ぶ初午大根焚き」が行われていました。
「幸せを呼ぶ」となると非常に気になる行事です。

しかし、まずはお参りから。三千院の境内は非常に広く、
その中に平安時代から現代までの仏像、お堂、庭園、石仏などが
融合しています。最も歴史があるのが寛和2(986)年建立の往生極楽院。
三千院の源ともいえるお堂でこちらにお祀りされているのは
阿弥陀三尊像(国宝)です。1000年を超える時の中で多くの人々の
願いを叶えてこられた仏様は庭園の木々に溶け込むように簡素な
お堂の中で優しく迎えて下さったことが印象的でした。
次はお待ちかねの大根焚きへ向かいます。



この 大根焚き は参拝者の方がよい1年を過ごせるように・・・と願い
毎年2月の初午にあわせて開催されています。大原の方々が有機農法で
愛情一杯に栽培された大根は出世金色不動明王のご利益を
いただけるよう特別祈祷され、特製のお出汁でじっくり焚かれ、
ほっかほっかの大根焚きとなって参拝者にふるまわれます。

では、ありがたく、いただきましょう!熱々でしかも大きい!
お腹と心に沁み入る美味しさに早くも幸せがやってきたようでした。



お腹を満たした一行は 寂光院 へと向かいます。
小川がせせらぎ、畑が広がる静かな道をのんびりと歩くこと20分。

ここ寂光院は推古2(594)年に聖徳太子が父・用明天皇の菩提を
弔うために建立されたというとても長い歴史のあるお寺で、
代々高貴な家の姫君達が法灯を守り続けてこられたそうです。

平清盛の娘・徳子(高倉天皇の皇后、安徳天皇の母)も
そんな女性の一人でした。皇后として一時は栄華を極めた徳子ですが、
壇ノ浦の戦いで平氏は源氏に敗れます。徳子は我が子・安徳天皇の
最期を見届けた後、自らも海に身を投じたのですが
図らずも源氏の手によって助け出されました。

そして京へ戻り出家をし、建礼門院となって36歳で生涯を閉じるまで
この地で我が子と滅亡した平家一門の菩提を弔う日々を過ごされたのです。

宝物殿には壇ノ浦の戦いの時の船の一部が残されていましたが、
すべてを失ってしまった建礼門院はこの小さな木片を
我が子や家族の形見として冥福を祈り続けたのかもしれません。

思ひきや 深山の奥に住居して 雲井の月をよそに見んとは     
建礼門院徳子


(栄華を極めていた自分が本来なら宮中から見るはずの月を
こんな山深いところから眺めることになるとは思ってもいませんでした)

『平家物語』の「大原御幸」にはそんな建礼門院を義父である
後白河法皇が訪ねてこられる場面が描かれています。
その美しくも哀しい描写を山村先生よりお話いただき、
この日の京都さんぽの締めくくりとなりました。

冬の大原は確かに寒い所でした。しかし寒い時期だからこそ、
静寂な空気に包まれた三千院の阿弥陀様と心静かに対面し、
ほっかほっかの大根焚きに人の温かさを感じ、
建礼門院の哀しみにほんの少し近づくことができた気がします。

また参加者の皆さんとも「こんな寒い時期の大原は
京都さんぽでないと来られないなぁ」と意見が一致したのも
嬉しいことでした。参加者の皆さま、山村先生、寒い中お疲れさまでした。


文/らくたび会員 森明子様  写真/らくたび会員 鴨田一美様


  

Posted by らくたび  at 15:41Comments(0)TrackBack(0)大原~八瀬エリア

2009年11月29日

絶景の紅葉を訪ねて! 東山トレイル歩き旅



心配されていた雨も降らず集合時間の11時には晴れ間ものぞいた今回は
途中昼食をとるため各自お弁当を持参して知恩院三門前に集合です。



知恩院 は、浄土宗の総本山で御本尊は法然上人御影像。
三門は徳川秀忠によって元和7年に建てられ国宝に指定されています。
御影堂は徳川家光により寛永16年に再建されこちらも国宝に指定されています。

そんな境内を通り抜け行く年くる年の出演率No.1である
大鐘楼の裏からいよいよ東山トレイルコースを歩きます。
歩き始めて5分程で 法垂窟 (ほうたるのいわや)が現れてきます。
ここは、法然上人が比叡山での修行を終え吉水草庵(よしみずそうあん)を
結び、人々の念仏の教えを伝え始めた場所だとされています。
法垂窟には今もコンコンと吉水が湧き続けています。



東山山頂公園 を目指します。ここからは上りが続く
厳しい行程です。自然と列は長くなりますが、20分程で
山頂公園に無事到着です。

青蓮院の飛地境内である 将軍塚大日堂 があり
その名の通り石造の大日如来が安置されています。

近くの展望台からは京都市街が一望でき、愛宕山を望む事ができます。
夜景スポットとしても有名ですよね。
ここで待ちに待った昼食タイム。山頂公園では我々の他にも
多くの人がお弁当を食べていました。



昼食を終えた一行は清水寺奥にある清閑寺を目指します。
山頂公園からは一転下りとます。上りと違い足を滑らさないように
慎重に歩きます。
清閑寺 は観光寺院ではないため、訪れる人はあまりいない隠れ寺です。
清閑寺参道や高倉天皇陵の周辺は紅葉が見頃を迎えておりとても綺麗でした!!

また、清閑寺は西郷隆盛が幕末に成就院の月照という僧侶と
密議を交わしていた郭公亭(かっこうてい)という茶室があった場所でも
あります。現在は崩落の危険があるとのことで取り壊されています。



清閑寺を後にした一行は国道一号線を横切り豊臣秀吉が葬られた
阿弥陀ヶ峰 を通り今熊野観音寺・東福寺をめざします。

途中、 剣神社五社之瀧神社 に立ち寄ります。
剣神社の鳥居の傍らには大きな石があり、社伝によればこれは
隕石なんだとか……!? 更にこの石の下に剣が埋まっているそうですよ。

五社之瀧神社にはお社はありませんが、
所狭しと末社が鎮座しているのが特徴です。
また打たせの瀧(五社之瀧)があり現在も修験者の方が
身を清めるため瀧に打たれに来られるとのこと。
この日は誰もいませんでした。



清閑寺から40分程かけてやっと 今熊野観音寺 に到着しました。
今熊野観音寺は白河法皇が持病の頭痛平癒を祈願し
見事治ったことから頭痛封じの御利益のあるお寺です。
頭痛平癒の御守りだけではなく枕カバーもあります。
私も頭痛持ちのため毎年お正月に一年の無事を祈って
頭痛平癒の御守りを買い求めています。

こちらも紅葉が見頃を迎えていました。ここでは赤色をした
紅葉だけではなく黄色がかっているのが印象的でした。
赤色も良いですが黄色も落ち着いた感じがして良いものですねぇ。

他にも今熊野観音寺は西国十五番札所でもあり
訪れたこの日はちょうど御本尊が御開帳されていて
多くの参詣者で賑わっていました。
私もきっちり内陣へ入り御本尊をお参りしてきました。



そして漸く最終目的地である 東福寺 へ到着しました。
東福寺は九条道家が九条家の菩提寺として創建したのが始まりで、
大伽藍を有することから「東福寺の伽藍面」と呼ばれています。

寺名の由来は奈良の東大寺・興福寺からそれぞれ東福寺と
名付けられました。三門や東司(お手洗い)等
貴重な建物が残っています。特に東司は室町時代唯一の東司で
かなり貴重なものだそうです。
通称「百雪隠(ひゃくせっちん)」と呼ばれています。
 
京都屈指の紅葉の名所ということで大勢の人で賑わっていました。
本堂と開山堂を結ぶ通天橋からの紅葉はまさに絶景!!
しかし、臥雲橋からみる景色も一見の価値はあるでしょう。
特に拝観時間前に訪れると無人の通天橋と紅葉を観賞することができます。

本日の京都さんぽは東福寺で終了です。約5時間にわたる
京都さんぽとなりました。帰る時すでに腰が痛くなっていた私です(泣) 
参加者の皆様、スタッフの皆様本当にお疲れ様でした!!


文/らくたび会員 森田和宏様  写真/らくたび会員 岩崎守男様・真紀枝様


  

Posted by らくたび  at 15:17Comments(0)TrackBack(0)五条~清水寺エリア

2009年11月08日

伏見稲荷お火焚祭見学と伏見の隠れ寺めぐり



本日の散歩集合は、JR伏見稲荷駅、午後1時。
天候は晴れ、11月というのに「暑い」という言葉の似合う一日でした。

私にとって始めてお目にかかる参加者が多かったことに驚きました。



まずは 大橋家庭園 苔涼庭(たいりょうてい) に向かいます。
ここは、個人のお宅ですが、昭和63年に京都市の名勝に
登録されています。現当主の曾お爺さんの大橋仁兵衛氏が
隠居のために作った家(庭)だそうです。明治の終わりから
作り初めて、大正2年に完成したお庭で、もうすぐ100年になります。

このお庭には、大きな特徴が二つあります。その一つは
京都一古い水琴窟です。昭和50年ごろは、全国で7つ8つ
残っていただけなのですが、テレビに取り上げられるようになり、
その後増えたようです。

最近とみに有名になった妙心寺の退蔵院の水琴窟より
古いものだそうです。



もう一つは、燈籠の多さです。 この庭は、仁兵衛氏と親戚筋にあった
七代目・小川治兵衛(植治)の設計で作られた庭です。

ただ、仁兵衛氏は石燈籠集めが趣味で、このお庭に12基もの
燈籠が配されています。 「苔涼庭」という名称は、
鮮魚元請をしていた仁兵衛が、親交のあった各地網元の
『大漁』を祈念して名付けたと伝えられています。



伏見稲荷大社 は、秦氏の一族により和銅4(711)年に創建され、
平成22年に鎮座1300年を迎えます。また全国4万におよぶ
稲荷神社の総本宮です。五条通から南側が伏見稲荷大社の氏神で、
北側が八坂神社の氏神になります。

キツネとお稲荷さんは同一視されたりしますが、
あくまでキツネは「神の使い」だそうです。
キツネは米を食い荒らすネズミを捕ることから、
五穀豊穣と関係しているとか諸説があるそうです。

伏見稲荷と言えば すずめの丸焼き が有名です。
すずめはお米を食べる害鳥なので、それを食ってやろう
というのが、発端らしいのですが、みやげ物店に「すずめ」
の姿がありません。すべてウズラのようです。

「最近は屋根瓦の家が減って、すずめが巣を作りにくくなって
その数が減った」というテレビ報道を見たことがあります。
またすずめは、中国からの輸入に頼っていましたが、
昨今の農薬問題のあおりを食って、入らなくなった
とか聞いたことがあります。それでウズラになったのでしょうか。

私には、いくら美味しくても、あの身近にいる
可愛いすずめを食べるのは忍び難いです。



お火焚祭 (おひたきさい)は、今年一年間の収穫に感謝する行事で、
伏見稲荷大社のものは全国一のスケールということで、
立ち上る炎に圧倒されます。

本殿裏手の斎場に3基の火床を設け、神田でとれた稲のわらを燃やし、
恵みをもたらしてくれた神を山に送ります。

その際、全国から寄せられた約10万本の願い事が書かれた
「火焚き串」を焚き、神楽女の神楽舞が行われます。



稲荷大社から住宅地の狭い道を南に向かって歩いていくと、
右手に ぬりこべ地蔵 があります。

病気を「塗り込める」ことから「ぬりこべ地蔵」といわれるように
なったそうです。傷口をふさぐ、特に歯痛平癒にご利益があるといわれ、
歯痛が治った人はお堂の格子にお礼の塗り箸を結びつける
という慣わしがあります。6月4日の「虫歯の日」には法要が行われます。
釘抜き地蔵(石像寺)とセットでお参りすると更にご利益があるそうです。



更に南に進むと、左手階段の奥に 石峰寺 の中国風(竜宮造り)の
赤い総門が見えます。

黄檗宗の寺院で、山号は百丈山(ひゅくじょうざん)。
本尊は薬師如来で開山は黄檗六世 千呆性案禅師
(せんがいしょうあんぜんじ)によって創建された寺です。
黄檗宗の禅寺らしく、全体に質素で本堂へ続く龍の背の鱗を表す
平石の参道が印象的です。
また本堂では、「卍くずし」を見ることが出来ます。

ここでは、門前に住んでいた伊藤若冲が奉納した五百羅漢が有名です。
伊藤若冲(1716~1800)は、錦の青物屋の生まれで、
23歳で家督を継いだのですが、絵を描くこと意外に趣味がなく、
39歳で家督を弟に譲りました。

五百羅漢は、釈迦誕生より涅槃に至るまでの一代を物語る
石仏群になっています。 「天上天下唯我独尊」と姿を示す
釈迦誕生仏から始まり、出山釈迦、二十五菩薩来迎石仏や
十八羅漢石仏、釈迦説法の群像、托鉢修行の羅漢の群像、
釈迦涅槃の場面、賽の河原と続いていきます。

毎年9月10日には、若冲忌が開催されています。
没後200年の2000年ごろから、若冲ブームが続いています。
私が伊藤若冲を知ったのは、テレビ番組の「なんでも鑑定団」
だったと記憶しています。若冲と言えば鶏の絵という先入観があります。



日蓮宗妙顕寺派 深草山(じんそうざん) 宝塔寺
平安時代に藤原基経(もとつね)により創建された真言宗極楽寺が前身です。
京都で布教活動を行っていた日蓮宗日像(にちぞう)上人が、
極楽寺住職の良桂(りょうけい)と出会い、数日に渡り論争をしました。
良桂は日像に感服し、宗派を日蓮宗に改めるとともに、
寺名を宝塔寺としました。多宝塔(重要文化財)は市内最古の多宝塔で、
一層目は行基(ぎょうき)葺き、二層目は本瓦葺きで、
永享10(1438)年以前に建立されたものです。

日蓮宗寺院本堂の特徴として、一般観光客は本堂に上ることが
出来なくて、檀家だけが上って使えるとのことです。そういえば、
日蓮宗の寺院の本堂は普段すべて障子が閉められていますね。

京都における日蓮宗の布教活動が凄かったため、
天台宗などからの迫害を受け、応仁の乱に匹敵する被害が出ました。
このことが原因となって、日蓮宗の檀家が多かった
西陣の技術者などは堺へ逃れ、ここで南蛮文化に触れ
多くの文化を吸収し、その後京都に戻ったそうです。

京都といえば碁盤目の街づくりがイメージされますが、
このあたりは、他宗派から攻められる恐れがあるため、
道路が迷路になっていたそうです。今もその面影が残っています。



こちらが 茶椀子(ちゃわんこ)の水 の碑です。
都に住む茶人が宇治川の水をくませて茶の湯に用いていました。

ある時、いつものように宇治橋まで水をくみに行った使いの者が、
この近くで水をこぼしてしまいました。仕方なく使いの者は、
このわき水を持ち帰り知らぬ顔をしていました。
主人はいつもの水と違うことに気付き、問いつめました。
使いの者は恐る恐る一部始終を話したところ、
しかられるどころか「宇治川の水に勝る」とほめられ、
その後は宇治までの遠出の労が省けたという伝え話が残っています。
きっと若冲さんも、このわき水で喉を潤していたのでしょうね。


文・写真/らくたび会員 鴨田一美様
  

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2009年10月25日

亀岡祭見学と日本最大の保津川下り



インターネットの検索サイトで「全国の祇園祭」を探してみると、
日本列島の北から南までたくさんの「祇園祭」が見つかります。

その詳細を見てみると京都の祇園祭と同様に疫病退散を願ったものから、
家内安全、五穀豊穣、商売繁盛、はたまた、豊漁を祈願したものまで!!

10月25日のらくたび京都さんぽはそんな祇園祭のひとつ 「丹波の祇園祭」
称される亀岡祭が行われる京都府亀岡市を散策しました。

実は亀岡市は私が生まれてから5歳まで住んでいた町です。
しかし、集合場所のJR亀岡駅は“国鉄時代”に行ったきり。
のどかなその時代の記憶しかない私は到着してビックリ。
素敵な駅舎に変わっているではありませんか!
浦島太郎になった気分で京都さんぽがスタートしました。



まずは亀岡祭が行われている町の中心部へ向かいます。
亀岡祭鍬山(くわやま)神社 の祭礼です。

この鍬山神社の創建は非常に古く和銅2(709)年に遡ります。
神社略記では「亀岡盆地が湖であった頃、大巳貴神(大国主命)が
神々を集め、鍬(くわ)で山峡を切り開くとこれが保津峡となり
肥沃な農地が生まれた。人々はこれに感謝し神様をお祀りした。」
と記されています。 

この頃にもお祭はあったようですが、時代の流れとともに神社は荒廃。
江戸時代に水害や飢饉が続いた時、町民たちは
「氏神様を大切にしなかったからに違いない」と考え、
この頃に現在の形のお祭が復活したようです。

丹波の祇園祭と呼ばれてはいるもののその発端は全く異なることに
驚きました。しかし山鉾が鉾町にズラリと並ぶ壮観な様子は
京都の祇園祭と同様で影響を受けていることは間違いありません。



「ヨイヨイ、エンヤラヤー」の掛け声で三輪山を先頭に、
翁山鉾、羽衣山鉾が動き出しました。鉾の上を見てみると
お囃子を奏でているのは子供達です。女の子も参加しています。
京都の祇園祭よりもアップテンポなお囃子も聞こえます。

また八幡山鉾の鉾の上からはかつて京都の祇園祭もそうであったように
厄除けの粽(ちまき)が授与されていました。
幸運にも手にすることができたので見てみると……
「蘇民将来之子孫也」 と書かれた護符が!
「やっぱりな~」と参加者一同納得。

町内では屏風飾りだけでなく甲冑飾りの展示も行われており、
城下町の風情を楽しみながら鉾町を後にしました。



国の有形文化財に指定されている料理旅館 楽々荘
お食事をいただいた後は明智光秀が築いた 亀山城跡 へ向かいました。

「亀岡」のお城なのに「亀山城」?ちょっと不思議ですよね。
山村先生のお話によると、明治までは「亀山藩」だったのが
廃藩置県の時に三重県の亀山との混同を避ける為に「亀岡」と
改称したそうです。なるほど……。

亀山城の跡地は現在は宗教法人の所有となっており、
受付で見学手続きの後、石垣を見せていただきました。
お城といえば京都の二条城しか思い浮かばない私にとって
高くそびえる石垣は驚きでした。
ここから明智光秀は本能寺へと向かって行ったのですね。

そしてこの石垣、当時のものも一部は残るものの、
多くは法人の手によって再建されたものと聞いてさらにビックリ。
現在でも清掃、植栽などの維持管理をされているそうです。
でも、この石垣、なんだか昔に見たことがあるような気がするなぁ……



この後一行はJR亀岡駅に戻り、希望者は保津川下りへと向かいました。
保津川は慶長11(1606)年京都の豪商・角倉了以が
丹波地方の物産を京都へ運ぶために開削した川です。
400年前は産業水路だったその川は現在では
亀岡と嵐山を結ぶ日本一の観光川下りの名所となっています。

3時30分、船旅がスタート。船頭さんのお話を聞きながら
船は峡谷を進んで行きました。
途中に見られる、かえる岩、ライオン岩、ミッキーマウス岩、
などの岩めぐりも楽しみのひとつです。

しかし、景色に見とれて油断をしていると水しぶきが飛んでくるので、
タイミングよくシートで避けなければなりません。
紅葉が始まった木々や7月の京都さんぽで登頂した愛宕山を眺めていると
トロッコ列車が通過しました。保津川下りとトロッコ列車、
お互いに手を振りあい、写真を撮りあい、楽しいひと時となりました。




そして午後5時、嵐山に到着。参加者の皆さんと
「今日は1日よく遊んだ!」と大満足しながら家路につきました。

家に帰って母にすっかり変わった亀岡の様子を話しながら
亀岡祭の粽を見せると、ここで母から予想もしなかった真実が
明かされたのです!なんと、亀岡祭を行う鍬山神社は
私自身のお宮参りと七五三参りに行った神社だったそうです。

大急ぎで古いアルバムを取り出し、七五三の写真と
鍬山神社の写真と合わせて見てみると……確かに同じ社殿がありました。

そう言われてみれば、遠いかすかな記憶の中で、
不二家のネクター(桃のジュース)を飲みながら
何か行列を見た思い出が……母は一言「それが亀岡祭やん!」。

そして幼い頃、戦国時代好きだった父に連れられて
亀山城跡に行っていたことも判明。やっぱり!!

この日の京都さんぽは歴史あるお祭を見学し、
明智光秀という歴史上の人物をたどる散策のはずだったのですが、
思いがけず「私自身の歴史をたどる散策」となっていたようです。
とても感激しました。皆さんも自分の歴史をたどる旅に出てみませんか?
記憶には残っていなくてもきっと感じる何かがありますよ。

そんな大切なことを教えてくれた京都さんぽとなりました。
らくたびの皆さん、参加者の皆さん、ありがとうございました。


文/らくたび会員 森明子様  写真/らくたび会員 岩崎守男様・坂田肇様




  

Posted by らくたび  at 14:27Comments(0)TrackBack(0)その他

2009年10月12日

青蓮院青不動特別拝観と粟田祭見学、東山散歩

ずいき祭、時代祭、鞍馬の火祭……10月になると京都のあちらこちらで秋祭りが行われます。

この日の京都さんぽはそんな秋祭りのひとつ粟田祭の見学と
青蓮院での青不動の拝観、そして東山の裏道散策です。
参加者は京都さんぽ始まって以来最多の50名超。絶好のさんぽ日和の中、
東大路三条の交差点をスタートしました。



三条通を東へ進むと思いきや……先頭を歩く山村先生は
三条通の一筋南の細い道へ入って行かれます。

実はこの道、旧東海道として京の都と江戸を結んでいた道で、
かつては多くの旅人で賑わっていたそうです。
しかし、今ではとても静か。京都さんぽにはぴったりの道ですね。

この旧東海道を10分程歩くと 粟田神社 に到着しました。
粟田神社は貞観18(876)年に疫病を封じるために創建された
と伝わる歴史ある神社です。また、旧東海道に面していることから
古来京を行き来した旅人が旅の安全を祈願した神社でもあります。

かの源義経はここで源氏再興を祈願し、和宮はこちらに立ち寄り
江戸の大奥へ旅立ったのだとか。そんなお話を聞くと
私もこのまま東へ東へと向かってみたくなりました。

さらにこの粟田神社からは眺望もよく、青空に映える平安神宮の
朱塗りの鳥居を正面に比叡山、大文字山、金戒光明寺などを
望むことができました。



さて、いよいよ今日の目的のひとつ、 粟田祭 の見学です。
粟田祭も神社同様千年以上の歴史があり“室町時代、応仁の乱で
祇園祭が中断した時には粟田祭を祇園祭の代わりとした”と
伝えられています。

祇園祭の山鉾はもともとは手で持って歩けるくらいの大きさであったのが、
町衆の財力により現在のような絢爛豪華な姿へと変わっていったのですが、
こちらの粟田祭ではそんな祇園祭のルーツともいえる剣鉾差しを
見ることができます。長さ7~8m、重さ40~60㎏の長い剣をしならせながら
歩いて行く……とらくたび講座で聞いたことはありましたが
実際に見るのは初めてです。

また、青森の“ねぶた”に似た大燈呂も昨年180年ぶりに復活、
さらには神社のお祭であるにも関わらず青蓮院や知恩院の住職さんも
お祭に参列され神仏融合の姿を見ることができる見所満載のお祭のようです。



そんな説明を聞いていると、ドーン、ドーン、お祭の太鼓の音が
近づいてきました。チリーン、チリーン、剣鉾が鳴る音も聞こえてきます。
再集合の時間と場所を確認し、一時解散となりました。

しかし、初めてのことなのでどこで見たらいいのかわからずウロウロ……
すると参加者の方からお勧めの場所を教えていただき
ゆっくり見学することができました。お神輿が青蓮院の勅使門
(天皇・皇后両陛下とこのお神輿だけが入れる門)の階段を上る時、
沿道から「頑張れ~!」という声と拍手が湧き上がったことに感動しました。



再集合した後は 青蓮院 にて初公開中の青不動の拝観です。
さすがにこの日は拝観の長い列ができていましたが、
私達はらくたびさんが事前予約をしてくださっていたおかげで
すんなり入ることができました。

青不動 (正式には青不動明王二童子像)は11世紀の作とされ
高野山の赤、三井寺の黄とならび日本三大不動画のひとつつであり、
仏教絵画の最高傑作として国宝に指定されています。

これまで大阪万博(1970)などの会場で3度公開されてきましたが、
いずれも“絵画”としての公開で、仏さまとしての御開帳は
初めてとのことです。「殺伐とした事件や不祥事が絶えない
今の時代だからこそ、悪行や煩悩を滅する不動明王の力を
直接感じ祈ってほしい」という青蓮院さんの思いから
今回の御開帳となりました。その長い歴史のなかで、
数多の人々の祈りを聞き、救いとなってこられた仏さま。

作者が誰なのかはわからないそうですが、力強く、毅然とした
その姿と直接向かいあうことができた貴重な時間となりました。



青蓮院を後にした一行はお隣の 知恩院 へ。
すると知恩院の七不思議のひとつ、瓜生石の周囲に大勢の人が……

若村先生が講師をされている「おき・らくたび」の皆さまでした。
知恩院は浄土宗の総本山です。その入口となる三門は江戸時代に
徳川2代将軍 秀忠の寄進により建立され、現存する木造建築の門
としては最大規模を誇り国宝に指定されています。
完成から390年近く経過しているわけですが、平成5年に調査をしたところ
地盤沈下はわずか5㎜だとか!!パソコンや測定機器も無かったその時代に
どうしてこれほどまでに正確な建築ができたのか?

答えは三門の上に木像が安置されている棟梁 五味金右衛門のみぞ知るのかも
しれません。知恩院の御影堂、大鐘楼を見学し、裏道から円山公園へ入り、
八坂神社でこの日の京都さんぽは終了となりました。



距離にするとわずか1㎞程のこのエリアですが、人々が旅の安全を願った
粟田神社、皇室が国家安泰を祈願した青不動、民衆が浄土念仏に救いを求め、
徳川幕府も崇拝した知恩院、国をあげて疫病退散を祈願した八坂神社……

実際に歩いてみることで狭いこの範囲にこんなにもいろいろな信仰が
共存しているのだということを確認することができました。

そして時折東山を見上げればそこには秋の気配が!!錦秋の京都を
予感させてくれる楽しい時間となりました。

参加者の皆さま、スタッフの皆さまお疲れ様でした。
紅葉の京都でまたお会いしましょう!


文/らくたび会員 森明子様  写真/らくたび会員 岩崎守男様・坂田肇様


  

Posted by らくたび  at 14:14Comments(0)TrackBack(0)祇園~円山エリア

2009年10月04日

バスツアー ご開帳めぐりと観月の夕べ



金曜日までの雨がウソのような快晴に恵まれたこの日、
らくたび初のバスツアーが開催されました。

今回は 西国三十三観音霊場の御開帳巡り大覚寺の名月観賞 をまわる
盛り沢山の内容です。40名を超える参加者が集まりいざ出発です。
因みに西国三十三の内今回巡礼するお寺は下記の四箇寺です。

①第十四番: 長良山 園城寺(三井寺) 御本尊:如意輪観世音菩薩
②第十三番:石光山 石山寺 御本尊:如意輪観世音菩薩
③第十番: 明星山 三室戸寺 御本尊:二臂千手観世音菩薩
④第二十番: 西山 善峯寺 御本尊:十一面千手観世音菩薩



一番目の目的地は滋賀県大津市にある 園城寺 です。
「三井寺」 と呼んだ方が馴染みがあるかもしれませんね。

これは天智・天武・持統天皇の産湯に用いられた霊泉があり、
「御井(みい)の寺」の厳儀・三部潅頂の法水に用いられたことに
由来します。天武天皇より「園城」の勅願を賜った事から、
「長良山 園城寺」が正式な寺名となります。
三井寺の由来となった霊泉は金堂横の阿伽井屋で今も湧き出ています。
「ボコボコッ!!」と湧き出る音を聞くことができ
とても不思議な感じがします。

如意輪観音が祀られている観音堂は境内の南端に位置しており、
琵琶湖を見渡せる絶好の場所に造営されています。



続いて訪れたのは 石山寺 です。東大門を入り本堂へと続く階段を昇ると
目の前に大きな岩が目に飛び込んできます。

これは硅灰石(けいかいせき)と呼ばれる岩で寺名の由来にもなっており
天然記念物に指定されています。
御本尊が安置されている国宝の本堂には紫式部が『源氏物語』を執筆した
「源氏の間」があり音声による案内を聞く事が出来ます。



石山寺拝観後は待ちに待った昼食。
石山寺門前名物の しじみ飯 をいただきました。
しかし、しじみが門前名物だとは初めて知りました。
ご飯やみそ汁等でしじみを心ゆくまで堪能しました。



お腹も一杯になったところで一行は宇治の 三室戸寺 を目指します。
この三室戸寺は四季を通じて色々な花を楽しめるのが大きな特徴でしょう。
参道横の五千坪の庭園にはツツジやシャクナゲ、紫陽花が植えられており
本堂前には蓮もあります。更に本堂前には「勝運祈願の宝勝牛(牛玉)」があり、
この宝勝牛がくわえている牛玉に触れると勝運に恵まれると言われています。
因みに私は訪れる度に触れています(笑)。

本尊は一尺二寸(約36cm)ととても小さな観音様です。
内々陣まで入れば間近でその御姿を拝見する事ができます。

三室戸寺を後にした一行は次なる目的地である善峯寺を目指します。
京滋バイパスを使い大山崎へ向かう途中伏見区・宇治市・久御山町辺りを
横切ります。今は一面農地になっていますが、この地には昭和16年まで
「巨椋池」 と呼ばれる府内最大の淡水湖がありました。
四神相応の南の朱雀の地形状のシンボルにもなった池です。
全て無くなった訳ではなく、京都競馬場の馬場の中央にある池が
かつての巨椋池の名残だと言われています。
最近では生態系の調査等も行われたそうですよ。

善峯寺へ向かう途中もそうですが、ガイドの山村さんや若村さんは
我々の為にず~っとお話をされています。
各目的地での説明は勿論ですがバスに乗っていても行程上にある
歴史スポットやエピソード等途切れる事はありません。
全てが「へぇ~」と頷かされる内容ばかりで、聞いていて
益々お二人の魅力に引き込まれてしまいました。



そうこうしている間に 善峯寺 へ到着です。
善峯寺の最大の見所は樹齢600年とされている長大な枝を伸ばす
遊龍松と呼ばれる天然記念物の松です。

応仁の乱で荒廃してしまいましたが、徳川五代将軍綱吉公の生母・
桂昌院が再興されました。因みに桂昌院は「玉の輿」の語源になった
人物でもあります。境内奥にある開山堂やけいしょう殿からは
京都市内が一望できるビュースポットがあり、訪れた時間は
西日を浴びた京都市内がとても綺麗でしたね。
春の桜、秋の紅葉が見事なお寺でもあります。



ここでガイドが山村さんから若村さんへバトンタッチし、
最終目的地である大覚寺へと向かいます。
このバスツアーでは京都のカリスマガイドである山村さん・若村さんという
二大ガイドが聞ける贅沢なツアーとなりました。
走り出してから数分後……若村さんから突如会員の森さんが
マイクを持つことにっ!!森さんは自身のお膝元である
洛西の魅力について大原野神社や地元のディープなスポット等を
慣れた口調で紹介。サプライズな出来事で参加者一同は
大盛り上がりとなり、森さんは見事この大役を果たされたのでした。



そして、バスはいよいよ嵐山へと入ってきました。
大覚寺 へ到着した頃には日もすっかり沈んでいました。
大沢池 のほとりから大覚寺境内へ入りここで山村さんの説明があり
終わった途端、計ったように見事な月が昇り始めました。

お寺の方の話ではここ数年では見たこともない程の名月だとか。
大沢池の水面に映る月がとても幻想的な雰囲気へと誘っていきます。
時を忘れて見事な名月を観賞する人。カメラに収めようと
しきりにシャッターを切る人と楽しみ方は人それぞれです。

しかし、一日の終わりで疲れた体にはとても心地良い
癒しとなったのではないでしょうか。

本日のバスツアーはこの大覚寺で終了し京都駅で解散となりました。
今日は本当に天気に恵まれ、三井寺や石山寺からの琵琶湖の眺めや
大覚寺での名月観賞、更には四箇寺もの御本尊拝見と
とても満喫したツアーとなりました。
今後もこのような企画を期待し家路についた私でした。


文/らくたび会員 森田和宏様  写真/らくたび会員 鴨田一美様・坂田肇様 他 


  

Posted by らくたび  at 13:59Comments(0)TrackBack(0)その他

2009年09月20日

島原太夫が誘う 輪違屋の宴と太夫道中特別見学



島原の象徴ともいえる 島原大門 で集合です。
今日は参加者の顔ぶれが初めての方も多かったです……
やはり島原の宴だからかな。

島原 は、国内最初の幕府公認の花街です。当時は祇園よりも
高い格式を誇っていたのですが、今では面影はほとんど残っていません。



最初に訪れた 角屋もてなしの文化美術館 は、島原ができた当時から続く
揚屋さん(太夫や芸妓を抱えず、置屋から太夫などを派遣してもらい、
遊宴によりお客様をおもてなしする処)。

この建物は揚屋建築の唯一の遺構。内部はどこを見ても繊細で、
手入れが行き届き今でも大切に伝統を守られているのがわかります。
いつでも拝見できる訳ではありません。公開期間が決まっていますが、
拝見の際は丁寧に係の方が案内してくださいます。
残念ながら見所の2階のお座敷は今回拝見できませんでした。
現在2階は建物保存のため人数制限しておられます。
公開時間も決まっているため、必ず事前予約してお越しください。
予約してでも、価値のある多くの意匠を拝見できますよ!



この後、 島原住吉神社 へ。昔から島原の鎮守の神として崇められ、
往時は広大な境内だったそうです。
この神社の北側にある樹齢300年のご神木・大銀杏を経由して、
いよいよ本日のメインイベント! 



輪違屋 さんに到着。お玄関では女将さんがお出迎えくださいました。
この輪違屋さんは300年以上の歴史を誇ります。
外観がどっしりとした歴史を感じさせる建物です。細い格子戸がステキです。

さあ、到着早々に 太夫 さんが登場です。この島原で有名な司太夫さんです。
可愛らしい禿(かむろ)を従え、豪華なお着物が印象的。
ここで太夫道中を披露してくださいました。
「内八文字」(うちはちもんじ)と呼ばれる太夫独特の歩き方。
高下駄を地面に擦りながら、足を八の字に内へ内へと進めて行く。
なんて優雅な歩き方でしょう♪



滅多に見られない太夫道中を見学した後、玄関へ。
最初に驚いたのが、階段の広さ! 
太夫さんが行き交ったり、お料理を運んだりと、
広い階段が必要なんでしょうね。でもかなり急!
慣れないと落っこちそうでした。

そして、もうひとつは浅葱色に「輪違」の輪を白く染め抜かれた
麻の暖簾。暖簾ってお商売人さんには大切ですよね。

宴の前に女将さんが2階を丁寧に案内してくださいました。 
襖に道中傘が描かれた傘の間は、太夫道中の際に使用される
「道中傘」 を襖に貼ったものだそうです。
今見るとっても斬新なモチーフですね。
昔の方のセンスって素晴らしいです。

次は 「紅葉の間」 へ。壁にたくさんのモミジの葉が散りばめてあります。
これは、壁を塗る際に、モミジの葉を直接貼り型をつけ、その後、
貼りつけたモミジの葉を剥がすとそこにモミジの形がつきます。
その部分に顔料で鮮やかな色を付けていってモチーフにしてあります。
これもまた粋な技法ですね!

他にはお客様同士が顔を合わせないように、階段が何箇所もあったり、
階段の上にミラーボールのような物が備え付けてありましたが、
これもミラーに映る様子で鉢合わせしないようにするための
計らいだったそうです。



2階の見学が終わり宴が始まります。2本のろうそくの明かりだけになり
幻想的な空間にかわります。 

禿ちゃんの着物の袖についている鈴のリンリンと音がしてくると、
太夫さんが近くにいるという証……
遠くからリンリンと鈴の音が聞こえてきました~。

今日の司太夫さんは金糸、銀糸が豪華な打ち掛けをお召しになっていて
とっても華やかです。地毛で結った髪にたくさんの飾りをつけ
頭部だけでも3キロもあり、着物をいれると30キロほどの重量を
身につけていらっしゃるそうです。すごいですね~!

まずはお客様とのご挨拶で顔見せでもある 「かしの式」
が披露されます。 このかしの式では言葉を発することは許されませんので、
所作で自己アピールをする場なんだそうです。高尚で粋なルールですね。



続いて茶道のお点前と舞が披露されます。どちらも優雅な立ち居振る舞いが
素敵でした。その後食事をいただきながら司太夫のお話を聞きます。
島原の歴史、花街の話、太夫とは……。どれもとっても
詳しくお話いただき勉強になりました。

太夫さんのお着物の衿元が折り返されているのですが、
これは御所に上がることが出来る「正五位」の官位である
格式を現しているそうです。高貴な人たちのお相手が
ちゃんとできるように、茶道、華道、書道、和歌から琴、
三味線、唄、舞踊に至るまであらゆることを学び嗜むことが
必要とされるハードルの高いお仕事なんですね。



最後に古式雅なお遊び「投扇興」で大盛り上がりでした。
現在太夫さんは3名しかおられないとか。
継承者の方々に頑張っていただき、 いつまでもこの伝統ある
島原の街を守っていただきたいものです。
 
今日のツアーの私的なポイントは、輪違屋さんに入れたこと!
以前島原界隈を散策した際に「観覧謝絶」と書いてあったのが
すごく印象的で、どんな人がここに入れるんやろ~、って考えてました。
貴重な経験をさせていただき感謝! のひとことです。


文/らくたび会員 奥村成美様  写真/らくたび会員 岩崎守男様


  

Posted by らくたび  at 12:25Comments(0)TrackBack(0)壬生~島原エリア

2009年09月09日

上賀茂神社の烏相撲と洛北社家町西村家散策



今日九月九日は五節句のひとつ、 重陽(ちょうよう)の節句 です。
格調の高い響きですね。別名「菊の節句」と呼ばれてますが、
これは旧暦では菊の花の咲く時期である事からきています。

陰陽五行説によると数字の奇数は陽数と呼ばれ、古来良い数とされました。
その中でも1から9の数で、陽数の一番大きな数である9が重なる
(重陽)九月九日は特に重視され、宮中では中国の故事にちなんで、
この日菊の花びらを浸した菊酒を飲んで長寿と繁栄を願ったそうです。

この五節句の話はらくたびさんの講座で何度も採り挙げられ、
「鬼門」や、「御霊信仰」などと同様に、現代の私たちには
歴史を学ぶ上での必須の知識ですね。

ただ“菊の節句”と言われても、現在私達が使用している新暦では、
未だ菊のシーズンには早すぎますね。この辺がややこしい所です。



今日は京都の色々な神社で重陽の節句に関する行事が行われてますが、
今から参ります上賀茂神社では、更に 烏(からす)相撲 という
ユニークな神事も行われ、この烏相撲の見学が今日の京都さんぽの目的の一つです。
一の鳥居前に10時に集合しましたが、烏相撲には未だ少々早いので、
上賀茂神社の由来など詳しい説明を聞きつつ参道を本殿の方へ向かいます。

上賀茂神社 の歴史はとにかく古く、平安京遷都以前からこの地を支配していた
賀茂氏による建立で、王城鎮護の神として篤く敬われてきました。

祭神は賀茂別雷大神(カモワケイカヅチノオオカミ)で、神社の正式名称も
賀茂別雷神社です。と書いて気がついたのですが、
祭神の名前がそのまま神社の名前に成っているのは珍しいですよね。



上賀茂神社と烏相撲との関係ですが、上賀茂神社を創建した賀茂氏の祖は、
神武天皇が九州から東征して大和の国に入る時に道案内をした
八咫烏(やたがらす)と言われ、この烏は、賀茂別雷大神の祖父であり
下鴨神社の祭神である賀茂建角身命(カモタケツヌミノミコト)の
化身だそうです。祖先が烏という伝説から烏相撲に繋がるという訳です。

一の鳥居から真っ直ぐに参道が延びています。参道の右手には、
四月には見事な桜を見せてくれる「斎王桜」と「御所桜」の木が有ります。

左手は五月の「賀茂の競馬(くらべうま)」で馬が走り抜ける馬場が
続いており、ここには若い「鞭打ちの桜」という名の木が有りました。
丁度この桜のあるあたりで、競馬の時に馬に鞭を入れるそうです。



朱塗りの鮮やかな楼門に着きました。楼門の奥には国宝の本殿と、
本殿と全く同じ作りのこれも国宝の権殿があります。
重陽の節句の神事が行われていますが、楼門の傍からは直接は見えません。
境内を少し歩きながら烏相撲の始まりを待つ事にしました。

相撲というと現在では国技のスポーツというイメージですが、
昔は相撲にはもう一つの顔が有りました。
それは、健康と力に恵まれた男性が神前にてその力を捧げ、
神々に敬意と感謝を示し、悪霊退治を願うという神事という側面です。

いよいよ烏相撲が細殿という建物の前で始まりました。
細殿からは斎王代がご覧になってます。烏帽子姿の2人の刀祢(とね)が
小刻みに横飛びをした後、座った状態で
「カーカーカー、コーコーコー」と烏の鳴き声を真似る
ユニークな所作を行います。ここが本日のハイライトの一つです。
不思議な儀式です。そして、その後10人ずつに分かれた児童による相撲が
行われました。この相撲は私たちが普段見ている相撲と同じものでした。

相撲の途中でしたが、時間になったので、混むのを避けて
早めの昼食を摂るべく、「鯖煮定食」で有名な門前の今井食堂へ向かいました。

が、お休みでした。残念。水曜は定休日との事。がっかりして、
食事は後回しという事で、西村家へ向かいます。



上賀茂神社内を流れていたならの小川は、神社を出ると
明神川 と名前を変えて、門前の社家の町並みに沿って東へ流れます。
水量の豊かさにいつも驚かされます。社家とは代々神職を世襲してきた
家筋の事で、上賀茂神社の社家は江戸時代には300近い屋敷が
有りましたが、現在では30余りになっているそうです。



その社家のひとつである 西村家別邸(錦部家旧宅) を拝観しました。
ここには平安時代末の作と伝わる非常に古い庭園が残っています。
庭園は明神川の水を取り入れ、それを再び明神川へ戻す仕組みになっています。
テープレコーダーから流れる詳しい説明を聞きつつ、
落ち着いた時間を過ごしました。



お腹も空いてきました。神社では今日は菊酒の無料サービスが有る
との事でしたので、再び神社に戻りました。
丁度、相撲が終わって見物客の方々も続々と帰られてました。
人の流れに逆行して先程の細殿に戻ると、無事、
菊酒のサービスが受けれました。さあ、これで無病息災です。

今日は、ゆっくりと上賀茂神社を歩きました。
伝統を伝えていく姿を垣間見た烏相撲神事でした。


文・写真/らくたび会員 坂田肇様


  

Posted by らくたび  at 11:54Comments(0)TrackBack(0)上賀茂~北山エリア

2009年09月06日

アサヒビール大山崎山荘美術館とサントリー山崎蒸留所



京都駅からJRで15分、大阪との府境に位置する京都府乙訓郡大山崎町は、
古くから交通の要所として栄え、万葉の歌にも詠まれた名水の里。

また「山崎の合戦」で名高い天王山を擁する歴史的価値の高い町です。
さらに……かつて私の祖母が住んでいた町でもあり、私にとっては
ホームタウンも同然。
この日のらくたび京都さんぽはそんな山崎周辺を散策しました。


出発はJR山崎駅。最初は 関大明神社 に向かいました。
ここは今でいう都道府県が「摂津国」「山城国」であった頃、
その境界の関所が設けられていたところです。のちに関所が廃止され、
その跡地に神社が創建されました。

といっても現在でもここが京都府と大阪府の境界で、この神社は大阪府。
らくたび京都さんぽ初の大阪進出です!!
この日の私たちは難なく“国境越え”ができましたが、
昔は都への出入口として重要な関所となっていました。
平安末期、平家一門もここを越えて西国へ都落ちをしたそうですが、
どんな気持ちでこの地を歩いたのでしょうか?
「もう二度と戻れない」覚悟か、「必ず戻ってくる」決心か・・・?
神社の横には「従是東山城国」の石標が立っていました。



大阪府に進出した一行は昔の面影が残る西国街道を西へと進み、
天王山の麓に建つ サントリー山崎蒸留所 へ到着しました。

今からさかのぼること80年あまり、現サントリーの創業者である
鳥井信治郎氏が日本初の国産ウイスキー製造に乗り出した
“日本ウイスキー誕生の地”です。

私が子供の頃、夏になると“サントリーまつり”というものがあり、
親族総出の大イベントとなっていた懐かしい記憶がよみがえってきました。
こちらの蒸留所見学は試飲もできるとあって大変人気があり、
休日は予約でいっぱいだとか。



ガイドさんの案内で見学がスタートしました。
説明によると、鳥井氏がここをウイスキーづくりの地として選んだ理由は
ズバリ“水”。桂川、宇治川、木津川が合流し、この3つの川の水温の違いから
絶えず霧が発生し、平野と盆地に挟まれた独特の地形からは清らかな水が
こんこんと湧き出るまさに理想郷だったからだそうです。

鳥井氏はここで「日本人の繊細な味覚にあうウイスキーをつくりたい」と考え、
世界の蒸留所では見られない様々な創意工夫に取組んでこられました。
そのひとつがズラリを並んだ蒸留釜。釜の形や大きさを変えることで
ウイスキーの元となる原酒に多彩な香りや味が生まれるそうです。
へぇ~、職人技ですね。

そして見学後はお待ちかねの試飲タイム。「山崎12年」「白州12年」の
飲み比べを楽しみました。



この日の気温が高かったせいか、それともウイスキーで温まったためか……
かなり熱い中、再び「山城国」に戻り、離宮八幡宮を見学後、 妙喜庵 前に到着です。

こちらには茶道を究めた千利休が創作した茶室・待庵(たいあん)が現存し
国宝にも指定されています。利休もこの茶室で山崎の名水を使って
お茶を点てていたのですね。

ちょっと余談ですが……私が子供の頃大好きだったメニューに
「山崎のおばあちゃんの家で食べるおうどん」というものがありました。
沸かしたお湯に粉末のうどんスープを溶かし、麺を入れただけの
シンプルなものなのですが、同じものを京都市内の我が家で作っても
明らかにおいしさが違ったのです。
祖母いわく「山崎は水がおいしいから」。利休のお茶と私のうどん体験。
まったく異なるようですが、どちらもシンプルなものだからこそ、
そこに水の違いが現れるのかもしれません。

ここからJRの線路越しに見えるのは天正10(1582)年
羽柴秀吉と明智光秀による天下制覇をかけた戦い「山崎の合戦」
の舞台となった天王山です。川と山に挟まれた特徴的な地形から
「天王山を制した軍が勝利する」と考えられ戦が繰り広げられました。

このことから「天王山」という言葉が一世一代の大勝負の代名詞として
使われるようになったそうですが、この町から一つの日本語が生まれた……
よく考えたらすごいことですよね。



さて、サントリーの次はアサヒビール。芸術の秋にふれてみようと
アサヒビール大山崎山荘 へと向かいます。

この山荘はもとは大正から昭和にかけて活躍した実業家・加賀正太郎氏の
別荘として建築されました。その後、時代の流れとともに
荒廃が著しかったものを平成になってアサヒビールの当時の社長
(アサヒスーパードライがヒットした時の社長さんだそうです)
により修復整備が行われ、現在では安藤忠雄設計の新館と合わせて
美術館として公開されています。

加賀氏は若き日に訪れたイギリスで眺めたテムズ川の流れの記憶から
ここ大山崎を山荘建設地に選んだそうです。敷地内に自ら設計した別荘の
建築状況を見るための塔まで造ったこだわりよう。
美術館を鑑賞した後で立ち寄った喫茶室のテラスには
当時と変わらない壮大な風景が広がっていました。



ここで京都さんぽは終了となりましたが、この日の散策を通して
山崎の地形、気候、地下水といったあるがままの自然が
いかに重要な役割を果たしてきたのかを知ることができました。

また子供の頃と今では同じ場所に立っても見えるものが
随分と違うことも新たな発見でした。
「もう何回も行っているし」とわかったつもりになるのではなく、
これからも現場に足を運ぶことで、その時、その時に感じることを
大切にしていきたいなぁ……と思いました。


文/らくたび会員 森明子様  写真/らくたび会員 鴨田一美様


  
タグ :京都大山崎

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2009年08月29日

晩夏のナイトウォーキング 閑寂な社寺と京都御苑



本日は地下鉄鞍馬口駅から先斗町界隈まで歩きます。
結構な距離になりそうなイメージです。

まずは地下鉄鞍馬口駅から東に向かって、上御霊神社をめざし歩き出しました。
途中の右手に 猿田彦神社 があります。



この神社の社伝によると桓武天皇は、この社の託宣(たくせん:神のお告げ)
によって平安遷都を決意し、延暦12(793)年には勅願によって
社殿が造営されたそうです。
祭神は猿田彦大神と天鈿女命(あめのうずめのみこと)の2座で
皇居造営に当たっては、この社の土でもって地鎮の神事を
執り行われていたそうです。

このように歴史に深くかかわりを持つ神社なのですが、
ただ歩いているだけでは見落としてしまいそうな可愛い神社です。



ここから東へ100mほど歩くともう 上御霊神社 です。
早良親王や井上内親王、橘逸勢、吉備真備など、非業の死を遂げた人々を祀る神社で、
鳥居近くには「応仁の乱勃発地」という石碑があります。

境内は、その雰囲気から時代劇の撮影にもよく使われるとか。
京都ではいろんなところが映画撮影に利用されているようなので、
今まで、なんとなく見ていた時代劇ですが、これからは観かたを変えて、
「これはあの神社かな」などと見るのが楽しみになるかも知れません。



続いて 相国寺 を訪ねました。ここでは、らくたびツアーならではの
サプライズがありました。

ここの墓地に有名な三人の方が眠っておられます。
伊藤若冲(江戸時代後期の画家、錦市場の青物問屋の出身、相国寺の僧が命名)、
足利義政(鎌倉幕府8代将軍、東山文化に貢献、応仁の乱を招く)、
藤原定家(小倉百人一首、新古今和歌集を編纂、冷泉家の祖先)が
並んで葬られています。

なぜこの3人が並んでいるのかは、たまたま歴史の中でそうなったとか、
歴史って不思議ですね。

相国寺といえば、宗旦狐の話が有名ですね。小さなお社ですが、
夕闇の中ここだけ電灯が灯されている光景は、
狐が如何にお坊さんに可愛がられていたかを想像することができます。



ここから 京都御所 の朔平門(さくへいもん)に向かって進みます。
頬を撫でる風はいつしか秋の気配を感じます。もうあたりは真っ暗、
秋の虫の声と我々の足音だけが御苑を賑わしています。

人影はほとんどなく、昼間の御苑とはまるで違う雰囲気です。
一人でこの雰囲気を味わうことはまずないでしょうね。
らくたび一行のお蔭です。

御所の北東角の猿ヶ辻では「満れば欠くる世の習い」から、
あえて完成させなかったこと(完成の後は衰退になるとの考えから)、
そして鬼門封じの猿の説明を聞きました。

そろそろ歩き疲れて喉が渇いてきました。梨木神社の染殿井の
あの柔らか~い水が楽しみでしたが、夜はポンプの電源が切られているようで、
喉を潤すことが出来ませんでした。残念。



丸太町通を横切り、 下御霊神社 (元は出雲路の上御霊神社の南にあったことから
下御霊神社と呼ばれるようになったと伝えられている)に到着。

この南側には西国三十三所の中で唯一の尼寺であり、
町堂と言われ民衆に親しまれていることで有名な革堂(行願寺)に
着いたのですが、もうすでに閉門されており参拝できませんでした。



ここから東へ2~3分の距離で維新の志士 桂小五郎 、後の 木戸孝允 の屋敷が
あったところがあります。この邸宅は、木戸孝允のご子息である木戸忠太郎氏が
昭和18年京都市に寄贈され、現在京都市の職員会館「かもがわ」の
一角にあります。

また木戸忠太郎氏が収集され、寄贈された数万とも言われる
達磨が並ぶ達磨堂が建っていました。
よほどの歴史マニアでなければ訪れないところかも知れませんね。



このあたりから、最終目的地の三条、先斗町あたりまで
幕末から明治時代にかけての歴史史跡の宝庫を歩きます。

まず がんこ寿司・高瀬川二条苑 になっているところは、
元・山縣有朋邸であり、元・角倉了以邸だったそうです。
鴨川からこの邸宅の庭を通って高瀬川に水を引いています。
森鴎外の「高瀬舟」で有名な高瀬川の一之船入には、
底が平たく舷側の高い高瀬舟が一艘ありました。

幾松 は、幕末の頃倒幕運動に大きな役割を果たした
維新の三傑の一人である桂小五郎と三本木の芸妓幾松
(のちの松子夫人)の木屋町寓居跡です。

佐久間象山寓居跡、武市瑞山先生寓居跡、ちりめん洋服発祥地、
吉村寅太郎寓居跡など、そこかしこに石碑が立っています。



最後は、 酢屋・龍馬寓居跡 です。龍馬が近江屋で遭難する直前まで
身を寄せ海援隊京都本部が置かれていた酢屋嘉兵衛宅で、
入口には、坂本龍馬寓居の跡の石碑が立っています。

来年のNHK大河ドラマが坂本龍馬を主人公とする「龍馬伝」と決まりました。
これから幕末や龍馬関係の史跡が賑やかになることが予想されるので、
その前に訪れられることをお勧めします。

山村さんから、今後夏に限らずこうしたものも企画していきたい旨の
ご挨拶がありました。

今後の素晴らしい企画に期待を寄せて、解散となりました。
お疲れ様でした。


文・写真/らくたび会員 鴨田一美様


  
タグ :京都幕末

Posted by らくたび  at 18:21Comments(2)TrackBack(0)御所~下鴨エリア

2009年08月29日

西陣の町家文化財 冨田屋で過ごす夏の茶話会



国の登録有形文化財の指定を受けた町家冨田屋さんを訪ね、
夏のしつらえ等についてお話を聞いた後、お抹茶をいただく
と言うのが本日の主要な内容です。

集合場所の西陣織会館へバスで向かっていると、心配していたとおり
雨が本降りになって来ました。どうやら夕立のようです。
もう少し余裕を見て西陣織会館に到着していれば、
内部の見学も出来たのですが、今回は残念ながら諦めることにしました。



西陣 は、応仁の乱で山名宗全が率いた西軍の本陣跡地に広がった
絹織物の産地です。
また、ここには、 村雲御所跡 の碑が立てられています。
これは、豊臣秀次の生母・瑞龍院日秀尼が秀次の菩提を弔うため、
村雲の地に創建されたお寺ですが、堀川通の拡張工事が始まる昭和37年、
滋賀県近江八幡に移築されました。

西陣の中心をなす今出川大宮は古く 「千両ヶ辻」 と呼ばれ、
1日に千両に値する生糸が動いたといわれるほど賑わったそうです。

ここから堀川通を少し下ルと安倍晴明を祭神とする 晴明神社 があります。
境内には、晴明の念力で湧き出て、飲むと悪病難病が治ると伝えられている
晴明井があります。最近の占いブームの影響か若い女性の姿が
多く見受けられます。また最近では特に修学旅行生に大人気の
スポットのひとつだそうです。

今日の散歩の安全を祈願して、さあ出発です。



晴明神社を出て、西の方角に進むと数分で 冨田屋 さんに到着します。
冨田屋さんは、元々伏見で両替商を営んでいました。
その後西陣産地問屋システムを立ち上げ、明治18年に
現在の商家を建てられたそうです。

玄関の外観は見るからに「京の町家」という雰囲気です。
らくたび会員の安達さんにお迎えをいただき、早速案内していただきました。

この建物は、1999年に国登録有形文化財指定、
2007年に京都市景観重要建造物に指定というすごいものです。
我々素人にもそのすごさが伝わってきます。



座敷に案内していただくと、「アンティーク着物展」が開催されており、
冨田屋さん代々のお嬢様や奥様の着物が展示されていました。
中には今ではもう再現不可能なものもあるとか。
大変貴重なものを拝見することが出来ました。

離れ座敷に通じる廊下には、切れ目のない約10mの赤松の廊下があり、
歴史と重厚さを感じさせられます。離れ座敷に通されると、
ふすまは「すだれ」に、畳には「あじろ」が引かれ、
見た目にも夏の雰囲気が伝わって涼しく感じられます。

昭和10年に増築された離れのうち、とくに茶室は
武者小路千家官休庵九代家元・千宗守氏より
「楽寿」の名を頂いたそうです。



今まで抹茶を頂く機会はあっても、このように本格的な茶室での経験は
全く初めてのことで、不安と興味津々の入り混じった心境です。

高さ・幅が60cm少しの小さな出入口であるにじりぐちから茶室に入ります。
正座をして一礼、そのまま、両拳をついて膝で進むような動作で
体を滑らせて茶室に入ります。
まさに「にじって入る」そのもので、普段テレビなどでよく見る光景です。

これは、地位・身分の高い人にも頭を下げさせる、という目的で
作られたもので、武士は刀を差したままでは
入りにくくなっているのだそうです。
今回、最も心配していた正座については、安達さんからの
「足を崩してどうぞ!!」の一言にホッと胸を撫で下ろしました。

お茶を頂く前にお菓子が出されます。感動したのは、
菓子鉢から懐紙に菓子を移すお箸の作法です。安達さんから、
懇切丁寧にお箸の持ち方、使い方について教えていただきました。

毎日使っているお箸ですが、その使い方によって、
物凄く上品に且つ無駄の無い仕草があることを気づかせていただきました。
食物を豪快に口に運ぶのも悪くはないでしょうが、
こういう仕草、所作も大切だなあと反省させられました。
安達さん、お箸に限らずこのようなマナーなど改めて教えてくださいね。



冨田屋さんを後にして、堀川通を渡り現在の一条戻り橋を東に進みます。
油小路通を下ルと楽家家元・楽美術館があります。
楽焼は、千利休の指導の元で、聚楽第建造の土を使って焼いたもので、
豊臣秀吉から聚楽第の一文字「楽」を印章に賜ったことが
始まりとされる説が広く知られています。
楽焼は、あの柔らかい釉薬の手触りにホッとした温もりを感じることが出来、
大好きな焼物のひとつです。



雨のぱらつく蒸し暑い日でありましたが、ご参加の皆さん、安達さん、
らくたびスタッフの皆さんお疲れ様でした。ありがとうございました。


文・写真/らくたび会員 鴨田一美様


  
タグ :京都冨田屋

Posted by らくたび  at 18:04Comments(0)TrackBack(0)西陣~北野エリア

2009年08月08日

真夏のナイトツアー 六道まいりと陶器市散策



長い梅雨がようやく明けた途端、真夏の暑さです。16時というのに
強烈な西日が照りつける中を、南座前から出発し、先ずは 建仁寺 に寄りました。



建仁2(1202)年栄西によって開創された京都最古の禅寺です。
京都五山の三位の寺格、開山の栄西は日本へ最初に茶を紹介した人物、
国宝の「風神雷神図屏風」を所有など、見所満載のお寺ですが、
他の五山の寺が皆京都の街中から一寸離れた場所に
位置しているのに対し、ここ建仁寺は北が祇園、西が宮川町と
二つの花街に接していると言うのが面白いですね。

しかし、そこは禅寺、境内は落ち着いた雰囲気に包まれています。
山村さんから沢山の建仁寺の歴史に関する話しが有りましたが、
ここでは一寸面白かった「龍図」の話を紹介します。

禅寺に「龍図」は付きものですが、建仁寺の龍は二匹の龍が描かれた
「双龍図」で、又、爪の数が普通日本の龍は三本であるのに対し、
ここの龍は五本の爪を持つ「五爪の龍」であります。

五爪の龍は中国の皇帝しか使うことが許されてなかったそうですが、
それは昔の話、現在はそのような取り決めはなく、誰でも自由に
描くことができるという訳で、実は建仁寺の龍図は
2002年に小泉淳作氏により描かれたものです。



六道珍皇寺は建仁寺のすぐ南に有りますが、ちょっと東の 安井金比羅宮 へ寄りました。
崇徳上皇に絡む、なかなかややこしい歴史を持つ神社ですが、
なんと言ってもここは“縁切り”のご利益で有名です。

境内には縁切りの願いを記した絵馬が沢山吊るされ、
「縁切り・縁結び碑」の表面には願い事を書いたお札が山の様に
ビッシリと貼られて、ちょっと異様な感じです。

この碑にはスマートな人が通れる位の穴が空いており(私は無理)、
縁切りだけでは無粋という訳か、表から穴をくぐって縁を切り、
次に裏からもう一度くぐって良縁を結ぶというのが作法だそうです。



今日の目的地の 六道珍皇寺 に来ました。
京都には普段は殆ど人が来ないのですが、ある時だけ大勢の人で
賑わう寺社が有って、ここ珍皇寺は、まさにそういうお寺です。

お盆の前の8月7日から10日にかけて、ご先祖様の霊を迎える
「六道まいり」 という行事が行われます。
高野槙を買い求め、水塔婆に先祖の戒名を書いてもらい、
お迎えの為の「迎え鐘」を引いて撞きます。
高野槙の葉で水塔婆に水をかけて供養すると、槙の葉に乗って
先祖の霊が家に戻って来ると言われてます。

そして、8月16日に「五山の送り火」でご先祖の霊を、又あの世に
送り戻すというのが、京都でのお盆のしきたりとなってます。
今日も沢山の方々が参られてました。
庶民に綿々と続く歴史というものを感じました。

珍皇寺のもう一つの顔が小野篁の「冥土通い」伝説です。
平安時代の官僚であり歌人でもあった小野篁は、昼は朝廷に仕え、
夜はこの珍皇寺に有る井戸をつたって地獄に行き、
閻魔大王を補佐する仕事をしていたと伝わります。

境内には、閻魔大王の像と並んで、小野篁の像が有りますが、
長身で彫りの深い偉丈夫だった小野篁とは、
正にこういう人物であったであろうと思わせる立派な像です。
東に葬送の地である「鳥辺野」に続くこの辺りは「六道の辻」と
呼ばれ、この世とあの世の境界にあたると言われてきました。



すぐ近くの 西福寺 の横には「六道の辻」の石碑が建っており、
西福寺ではこの時期に限って「檀林皇后九相図」や「地獄絵」を公開しています。

九相図とは人が死んでウジが湧き、白骨化して最後は土に帰る有様を、
九段階の絵に描いたものです。絶世の美人であった檀林皇后も、人間最後は
皆同じく土に帰るという事を言っているのですが、リアルですよ。



またこの辺りに 轆轤(ろくろ)町 という町名が有りますが、
これは元は髑髏(どくろ)から来たのではとも言われてます。
とにかく“死”と切り離せない場所がこの地なのですね。



珍皇寺を後にし、 六波羅蜜寺 を経て 五条坂 に出ましたが、
今通ってきた辺りは、平安末期の平家絶頂期には平氏の屋敷が
5000以上甍を連ねた場所だそうです。

平家は都落ちの際に、六波羅一帯を全部焼き払ったため、
何も遺構は残ってませんが、現在の町名の幾つかにかつての平家一族が
確かにこの地で栄華を極めた証拠として残ってます。

写真の「門脇町」は、平教盛(清盛の弟)の屋敷が
惣門の脇に有ったので、この名が付いたそうです。
平家滅亡後の鎌倉時代に西国と朝廷の監視所として設置された
「六波羅探題」もこの地に有りました。
数年前までは学校の敷地内にその石碑が立ってましたが、
今は学校は再建中で石碑も確認できませんでした。

が、六波羅探題という名前は広く知られた名前なので、
再建後に又石碑を建てて貰いたいですね。
私も、数年前に初めてここが六波羅探題の有った場所です
と教えて頂いた時は、妙に感激した記憶が残ってます。
何も遺構は無くても、石碑一つで充分という場所も有りますよね。

この後、五条坂を 陶器祭 を見ながら 若宮八幡宮社 まで行き、解散となりました。
が、凄い暑さの中での散策だったので、大半の方は、解散後も集団で
ビールが飲める屋台の場所まで行き、歓談の一時を過ごして
今日の散歩は終了となりました。

京都の歴史と伝統・習わし、そして伝説までぎっしり詰まった
中身の濃い六波羅の散策でした。


文・写真/らくたび会員 坂田肇様


  

Posted by らくたび  at 16:24Comments(0)TrackBack(0)祇園~円山エリア

2009年08月02日

夏の夜坐と祇園ビアガーデン



今回は坐禅体験がメインの京都さんぽ。体験する場所は
通常非公開寺院である建仁寺塔頭のひとつの両足院です。

16時に四条大橋東詰にある南座前に集合した一行は
目的地である両足院を目指します。



両足院 に到着後、お寺の方より両足院の歴史と坐禅の仕方を
お話していただきました。

両足院は龍山徳見禅師(りゅうざんとっけん)が創建した知足院に始まります。
のちに両足院に改称されました。この龍山徳見禅師は22歳で中国に渡り
禅を学び45年に亘り中国で過ごされました。
林浄因(りんじょういん)という中国僧と共に帰国をし、
帰国後は建仁寺・南禅寺・天龍寺等の住持を務めました。
一緒に帰国をした林浄因という僧侶が中国で食されていた
肉まんの中身(肉)を小豆に変えて
日本で初めて饅頭を作った人物だそうです。

建仁寺へはよく来ますがこの話は初めて聞き非常に驚きました。



歴史の後は坐禅の方法です。坐禅は姿勢を調える事から始まります。
これを調身といいます。

まず座布団の上に坐り足を組みます。足の組み方は両足をももの上にのせる
「結跏趺坐(けっかふざ)」 と片足だけをのせる 「半跏趺坐(はんかふざ)」
があります。坐りやすい方で良いそうです。

手は組んだ足の上に重ねるようにして置き、目は開いた状態で行います。
1m前方に落とすと自然と半眼状態になります。
背筋はまっすぐ伸ばし頭のてっぺんが天井に着くイメージで。
そして、おヘソの約9cm下にある 丹田 (たんでん)という場所に
重心を置くのが理想だそうです。

続いて呼吸を調えます。これを 調 といいます。
呼吸方法は腹式呼吸で鼻からゆっくり吐き、そして吸います。
この時丹田から吐き出す感じで行うと呼吸が調うそうです。

最後に心を調えます。これを調心といいます。
心を調えるということは雑念を取り除くということです。
しかし、簡単には取り除くことはできませんよね(笑)

そして、いよいよ坐禅体験のスタートです。
10分の坐禅を2回行います。休憩は1分。
途中、お寺の方が 警策 (けいさく)を持って前を歩かれます。
集中力を欠くときや姿勢が悪いと受けなければなりません。
自ら受ける事もでき受ける前後は必ず合掌をします。
私も合掌して自発的に受けましたが非常に痛かったです。
しかし、冷水を浴びせられた後のような爽快感?! が得られ
気持ちが引き締まる思いでした。

初めて坐禅を体験しましたが呼吸が難しく中々上手くいきません……
幸い呼吸をあまりにも意識するので余計な雑念はなかったように思います。

参加された方の中で時間が短く感じた方がいらっしゃいましたが、
私は10分が非常に長く感じられたのが本音です。



その後、両足院を後にした一行は夕暮れ時の祇園界隈や巽橋を
散策しました。昼間とは違った雰囲気があり風情がありました。



最後は南座の向かいにある レストランキエフ でビアガーデンのはずが……
夕立があったため急遽室内での開催となりました。
31日にあった京都さんぽ「愛宕山千日詣」の登山話を聞きながら
楽しい時間を過ごしました。残念ながらご来光遥拝は
叶わなかったそうです。来年こそは是非ご来光をみたいものですね。


文/らくたび会員 森田和宏様  写真/らくたび会員 鴨田一美様


  
タグ :京都座禅

Posted by らくたび  at 16:12Comments(0)TrackBack(0)祇園~円山エリア